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木地山峠

加越国境の大日峠・木地山峠付近図


1 木地山峠
(福井県勝山市・石川県小松市)

 かつて勝山市北谷町中野俣(池ヶ原地籍)と小松市新保町との間を結んだ標高約930mの峠です。

        
峠の位置はこちらです。

 峠名の由来は不明ですが、一説では木地師が係わっていた峠だともいわれます。

 勝山市内を流れる滝波川の支流、杉山川の谷から石川県を流れる手取川の支流、大日川の谷へ向かう間道が越えていました。

 古くは豊原寺(福井県丸岡町豊原)からの白山禅定道にあたっており、木地とは、いわゆる雉子神
(きじがみ)のことで、白山信仰の泰澄関係の地名であったとも考えられます。



2 峠下集落

(1) 中野俣
(勝山市中野俣)

 中野俣については、小豆峠・中野俣峠で説明しましたので省略しますが、かつて、この峠付近は「木地師」達が稼動していた所だったといわれます。

 峠の右側一帯は山林台帳で「大工山」というそうです。昔から木地師、木地挽は移動性の強い職種で、椀や鉢などを作りながら原木を求めて移動しました。

 彼等は移動の先々で簡単な家を建てましたから、中には「大工」をする人もいたでしょうし、

或いは木地師で巧者な人は、大工まがいのことをする人がいたかもしれません。

 何時しか、それが「大工山」と名付けられ、また、この付近には「五所ヶ原(御所ヶ原)」とか

「六呂師」という村もあったことを考えますと木地師達が活動した地域だったのでしょう。

 「六呂師」というのは轆轤に通じて、木地師の異名であり、勝山市北谷町には木地師に関する地名が多く存在します。

 また、彼等の習俗を伝えている集落もありますが、この木地師達が美濃から移動してきて、

或いは、加賀から山越えしてきて、この地に定着したかどうかは定かでありません。

 かつて中野俣で男子は15歳になると名替えの儀式と烏帽子を冠る儀式が続けられていました。

 現在の成人式に当たるもので、木地師は厳格にこの制度を維持してきましたが、中野俣でも

この儀式が続けられていたことは木地師の習俗が伝承されていたわけで、木地師存在の証拠ともいえましょう。



(2) 新保(小松市新保町)

 手取川の支流、大日川上流域の山間地に位置する集落です。白山山系の北西麓南端に位置し、

江戸期は白山麓18ヶ村の一つでした。寛文18年(1678)より幕府領になりました。

 慶長3年(1598)の検地では田1町9反余、畑1町1反余、元文元年(1736)の割付状には

村高21石4斗余とあり、雑木御林(御鷹巣山)が20ヶ所あって年2回の巡見が行われたようです。

 天保12年(1841)の家数は56戸ですが、地元の童謡に「島の助五郎、尾添で弥四郎、五ヶで新保の太右衛門さま」と歌われた

 草分けの春木家は、18ヶ村中の富農であり、明治初年まで奉公人7人、焼畑の請作40軒ほどをもっていたといわれます。

 明治5年(1872)石川県能美郡に属し、明治11年(1878)の家数120、人口631で、明治22年(1889)新丸村の大字、昭和31年(1956)小松市新保町になりました。

 昭和38年(1963)1月の豪雪で孤立した16戸、60人がヘリコプターによる物資投下を受けました。

その後、過疎化が進み昭和42年(1967)の家数9、人口24となりました。


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3 峠の歴史

(1) 豊原寺白山禅定道

 上記の略図で越前甲(標高1319m)の位置が分かりますが、この山には真言密教でいう

摩訶毘盧遮那仏
(まかびるしゃなぶつ)、またの名を大日如来という仏が祀られていました。

 この大日如来は、豊原寺(坂井郡丸岡町豊原)によって祀られたのですが、この仏は森羅万象の神仏、太陽にたとえられています。

 知恵の光明は、あらゆる煩悩の闇を除き、慈悲の光明は、すべてのものに救いの手をさしのべ、

この知恵と慈悲の二つの働きは、いつも休むときがないといわれます。

 この山に大日如来が祀られたのは、豊原寺が平泉寺末となることを嫌い、平泉寺からの

白山禅定道に対して、豊原寺から独自の白山禅定道を作って対抗したことによります。

 そのうえ、平泉寺や平泉寺道に祀られてない最上位仏の大日如来を安置して、威厳を示したと伝えられます。

 豊原寺修験者達は、この山を最高の行場として豊原寺から白山までに八宿を決め、人道を避けた山の稜線を利用し往来しました。

 これを豊原白山八宿禅定道といいますが、この禅定道を越前甲(大日岳)から三宿めの

「新の宿」へ下りて、四宿めの中野俣牛ヶ首谷へ向かう途中に木地山峠を越えたというのです。

 しかし、禅定道が廃止されて400年以上たった今、資料も口伝もなく、その真偽のほどは分かりません。

 かりに新又越、木地山峠を往来したとすれば、この峠は非常に早くから開削されていたことになります。



(2) 木地師往来の峠道

 「木地山峠」という名は、全国にいくつもあるようです。木地師は、原木を求めて移動する

漂白性の強い人々で、彼等が仮泊する所を木地山と呼び、そこを往来する峠を木地山峠と呼びました。

 この木地師達は美濃から移動してきたのか、加賀から山越えしてきたのか、この辺りに定着したのかなど定かでありません。

 しかし、この峠下の中野俣には木地師の習俗が伝承されていることから木地師が活動した地域であったことは確かです。



(3) 出作りが往来した峠道

 峠下の中野俣は、加越国境の白山麓に広く分布した出作りと呼ばれる山の斜面を利用した焼畑耕作地でもあり、

木地山峠に向かう道筋に下焼尾、焼尾などといった小字が見られ、木地師や焼畑の関連が深かったことを思わせます。 

 また近世、加賀側からの出作りや越前側からの炭焼きなどで峠を往来したといわれ、

加賀側の大日川上流の新保などの山村と越前側との経済的な結びつきが強かったようです。

 こうして、この峠も新又越・大日峠とともに出作りなど村人達の往来があったようですが、今では、いずれの峠も廃れて登山者が利用するだけです。



(4) 加賀一向一揆衆が往来した峠道

 室町末期の永正年間(1504〜1520)、加賀一向一揆衆は門徒農民の国を越前にもつくろうとして、しばしば越前国へ侵入しました。

 その別働隊が搦め手にあたる谷峠など加越国境にあった諸峠を越え、平泉寺を狙い、朝倉氏撃破の機会を窺っていました。

 天正2年(1574)、加賀一向一揆衆に支援された和田の本覚寺や藤島の超勝寺は、越前門徒を引き連れて朝倉氏に代って越前守護となった

桂田長俊を一乗谷に襲って自害させた富田長秀を府中城(武生市)に攻めて、これを撃破し、その余勢をかりて平泉寺を襲いました。

 このとき平泉寺は、「北山七家衆」(七山家)の門徒達に焼打ちされたのですが、谷峠から潜入した加賀一向一揆衆は、

五所が原(勝山市)から木根山、小原(勝山市)に出て七山家衆と合流し、平泉寺を背後から急襲したといわれます。

 こうして、加賀と越前の一向一揆衆は連合して平泉寺などを討ち破り、一時、越前国に門徒農民の国をつくりました。

 越前と加賀を結ぶ浄土真宗の教線が、大日峠などを越えて、この谷筋に早くから浸透していたことは、蓮如が本願寺を継いだ長禄元年(1457)以前に、

すでに和田本覚寺の下坊主になっていた松任本誓寺が峠下にある新保集落(小松市新保町)に道場を開いていた事実からも明らかです。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ      上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道   田嘉彦・松浦義則編著
蓮如と七人の息子          辻川達雄著




  

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