3 峠の歴史
(1) 豊原寺白山禅定道
上記の略図で越前甲(標高1319m)の位置が分かりますが、この山には真言密教でいう
摩訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)、またの名を大日如来という仏が祀られていました。
この大日如来は、豊原寺(坂井郡丸岡町豊原)によって祀られたのですが、この仏は森羅万象の神仏、太陽にたとえられています。
知恵の光明は、あらゆる煩悩の闇を除き、慈悲の光明は、すべてのものに救いの手をさしのべ、
この知恵と慈悲の二つの働きは、いつも休むときがないといわれます。
この山に大日如来が祀られたのは、豊原寺が平泉寺末となることを嫌い、平泉寺からの
白山禅定道に対して、豊原寺から独自の白山禅定道を作って対抗したことによります。
そのうえ、平泉寺や平泉寺道に祀られてない最上位仏の大日如来を安置して、威厳を示したと伝えられます。
豊原寺修験者達は、この山を最高の行場として豊原寺から白山までに八宿を決め、人道を避けた山の稜線を利用し往来しました。
これを豊原白山八宿禅定道といいますが、この禅定道を越前甲(大日岳)から三宿めの
「新の宿」へ下りて、四宿めの中野俣牛ヶ首谷へ向かう途中に木地山峠を越えたというのです。
しかし、禅定道が廃止されて400年以上たった今、資料も口伝もなく、その真偽のほどは分かりません。
かりに新又越、木地山峠を往来したとすれば、この峠は非常に早くから開削されていたことになります。
(2) 木地師往来の峠道
「木地山峠」という名は、全国にいくつもあるようです。木地師は、原木を求めて移動する
漂白性の強い人々で、彼等が仮泊する所を木地山と呼び、そこを往来する峠を木地山峠と呼びました。
この木地師達は美濃から移動してきたのか、加賀から山越えしてきたのか、この辺りに定着したのかなど定かでありません。
しかし、この峠下の中野俣には木地師の習俗が伝承されていることから木地師が活動した地域であったことは確かです。
(3) 出作りが往来した峠道
峠下の中野俣は、加越国境の白山麓に広く分布した出作りと呼ばれる山の斜面を利用した焼畑耕作地でもあり、
木地山峠に向かう道筋に下焼尾、焼尾などといった小字が見られ、木地師や焼畑の関連が深かったことを思わせます。
また近世、加賀側からの出作りや越前側からの炭焼きなどで峠を往来したといわれ、
加賀側の大日川上流の新保などの山村と越前側との経済的な結びつきが強かったようです。
こうして、この峠も新又越・大日峠とともに出作りなど村人達の往来があったようですが、今では、いずれの峠も廃れて登山者が利用するだけです。
(4) 加賀一向一揆衆が往来した峠道
室町末期の永正年間(1504〜1520)、加賀一向一揆衆は門徒農民の国を越前にもつくろうとして、しばしば越前国へ侵入しました。
その別働隊が搦め手にあたる谷峠など加越国境にあった諸峠を越え、平泉寺を狙い、朝倉氏撃破の機会を窺っていました。
天正2年(1574)、加賀一向一揆衆に支援された和田の本覚寺や藤島の超勝寺は、越前門徒を引き連れて朝倉氏に代って越前守護となった
桂田長俊を一乗谷に襲って自害させた富田長秀を府中城(武生市)に攻めて、これを撃破し、その余勢をかりて平泉寺を襲いました。
このとき平泉寺は、「北山七家衆」(七山家)の門徒達に焼打ちされたのですが、谷峠から潜入した加賀一向一揆衆は、
五所が原(勝山市)から木根山、小原(勝山市)に出て七山家衆と合流し、平泉寺を背後から急襲したといわれます。
こうして、加賀と越前の一向一揆衆は連合して平泉寺などを討ち破り、一時、越前国に門徒農民の国をつくりました。
越前と加賀を結ぶ浄土真宗の教線が、大日峠などを越えて、この谷筋に早くから浸透していたことは、蓮如が本願寺を継いだ長禄元年(1457)以前に、
すでに和田本覚寺の下坊主になっていた松任本誓寺が峠下にある新保集落(小松市新保町)に道場を開いていた事実からも明らかです。
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