3 峠の主な歴史
(1) 木地師が利用した峠道
木地師(注1)が木地挽きをする所を、多くは木地山と呼び、若狭の上根来村や池河内村から木地山を越え、
近江の轆轤村へ向かった峠でしたから、この名がつきましたが、「木地山峠」というのは、各地に見られます。
たとえば、加越国境の勝山市北谷町にも「木地山峠」がありますし、中国山脈の脊嶺を挟んで岡山・鳥取・島根の県境にもあります。
木地師達は、需要に応じて原木を求め、各地を移動して歩くうち、中国地方まで進出したと考えられます。
椀や盆づくりの原料になる材木が豊富であれば、腰を据えて定住する場合もあったでしょうが、
多くは10年ないし15年で原木を使い果たすと、新天地を求めて移動しました。
この移動には、木地師の先遣隊ともいえる「先山」が調査方々探し回り、適地が見つかると家族や仲間を呼び移動しました。
近江の「高島市朽木(旧朽木村)」には、昔から麻生谷と小入谷に二つの木地師集落があり、この辺で稼動した木地師を総称して麻生木地師といい、昔から重きをなしました。
(注1)木地師
木地の挽き物をつくっていた人を木地師、轆轤師といいました。13世紀の鎌倉期には、木工から分化していたといいます。
木地師の中には木材に恵まれた各地の山村に集落をつくり、椀、盆、杓子、こけしなどの日常生活用具を作った者が多かったようです。
なぜか、木地師は文徳天皇の皇子、惟喬親王(注2)を祖神とする伝承をもっており、
近江の愛知郡東小椋村(神崎郡永源寺町)の君ヶ畑と蛭谷(ひるたに)とが発祥地とされます。
鎌倉期以来の木地屋文書を持ち、職人として独特の習俗を残し、小椋、小倉姓を名のる人は、木地師に縁がある人といわれ、各地に分布しています。
木地師は轆轤師とも云われますように、挽き物の道具として、日本の古い工作道具の一つである横軸で一人挽きの手挽き轆轤を使っていました。
(注2)惟喬親王(これたかしんのう)
平安時代の承和11年(844)〜寛平9年(897)に在世した文徳天皇の第一皇子です。
当初、天皇は惟喬親王を皇太子にしようとしましたが、皇后藤原明子に惟仁親王が生れたため、
外戚の藤原良房をはばかり、嘉祥3年(850)惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にしました。
天安元年(857)14歳で元服し、四品(しぼん)を授けられて太宰帥(だざいのそち)、弾正尹(だんじょうのかみ)などを歴任しました。
貞観14年(872)病のため出家し、比叡山麓の小野に幽居したといわれています。
(2) 木地師の故郷
近江の八風街道に沿って流れる愛知川の支流、御池川沿いの小椋谷に蛭谷、君ヶ畑という二つの集落があります。
ここが江戸期、全国に展開する木地師の元締めとして重要な役割を果してきた所です。
彼等は移動性を有する職人であり、原料となる木材を求めて各地を渡り歩き、製作に従事しました。
原材料が不足すると移動するのを常としたため、諸国通行を可能とする往来手形やその裏付けとなる天皇の綸旨、武家の免状などを携帯していました。
江戸期、これらの文書(又は写し)を全国の木地師に発行し、また、技術保存に有利な同族婚姻を斡旋するなどして、
その代償に「氏子狩(うじこがり)」と称し、奉加料、烏帽子着料などを徴収していたのが蛭谷、君ヶ畑でした。
他方、平安前期、文徳天皇の皇子、惟喬親王が皇位継承の望みを断たれ逃亡し流浪、小椋谷に隠棲して
土地の人々に轆轤を用いた木地椀などの製法を教授したとの伝承を根拠に「氏子狩」は16世紀には開始されていたようです。
もとより、この地は中世、小椋荘(摂関家領)の領域だったところで、蛭谷、君ヶ畑は建築用木材の伐採、搬出を生業とする杣(そま)に属しました。
律令制のもと中央、地方の官衙や寺院に所属した諸職人が律令制の崩壊とともに、
その職能を元手に自立していくなかで、木工職人が材料を求めて、こうした杣に来着したと想像されます。
このように中世、椀、盆など生活雑器の製作技術が、この地で発展し製作職人を輩出する素地が存在したわけです。
しかし、ここが木地師発祥の地であることを周囲に認知させていくまでには、多くの政治的労力を要したと思われます。
近隣の大君ヶ畑(滋賀県多賀町)との争論は著名であり、また、各地の木地師も以仁王、安徳天皇、平家一門などと、それぞれ祖先伝承を有していたからです。
いうまでもなく惟喬親王が、この地に隠棲したことを確かめることは至難であり、歴史上、親王の隠棲理由は病であり、隠棲地も比叡山の小野とするのが通説です。
しかし、「氏子狩」が機能し、多くの木地師が小椋氏(又は大岩氏)を称していることも、また事実です。
悲運の皇子は、木地師の神として、再び歴史上の役割を与えられることになったわけです。
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