このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



木ノ芽峠

木ノ芽峠木ノ芽峠


1 木ノ芽峠(福井県南越前町・敦賀市)

 木ノ芽断層が横切る鉢伏山地の鞍部にある南越前町二ツ屋と敦賀市新保の間を結ぶ標高628mの峠で、越前(福井県)を嶺南と嶺北に分ける分水嶺になっています。

 峠名の由来は不明ですが、木目峠、木辺峠とも書き、木部山ともいわれました。

 峠下の二ツ屋と新保には宿駅があり、西近江路(木ノ芽道・古代北陸道)が通っていました。

 天長7年(830)上毛野陸奥公が開いた鹿蒜嶮道は木ノ芽峠であるといい、以後、北陸の関門として重要な峠道になりました。

 天正6年(1578)柴田勝家が栃ノ木峠を改修後、北国街道が官道に昇格し、

 この峠道は官道から除外されますが、敦賀を経由して京都へ向かう重要な道であることに変わりはありませんでした。

 こうして近代まで往来の多かった木ノ芽峠道も、明治20年(1887)山嶺を避けた海岸沿いに敦賀街道(武生敦賀新道)が開通して、

 敦賀・今庄間の木ノ芽道(西近江路)は管理対象外となり急激に衰退しました。

 それだけに街道の古い面影を保ち続けている数少ない峠の一つで、峠の東側には

 今も羽柴秀吉から拝領した釜をもつ茅葺き屋根の前川茶屋があり、西側には道元禅師の歌碑が立っています。

 前川茶屋の裏手には木の芽城と西光寺丸の城跡があり、道元禅師の歌碑の裏手には鉢伏城と観音丸砦の城跡があります。

 峠道は主要地方道(今庄敦賀線)になっていますが登山道しかなく、峠近くを通る

 広域基幹林道(栃ノ木山中線)は自動車の通行ができ、これで峠近くまで行くことができます。

 なお、JR北陸トンネルは峠のすぐ東下を通過していますし、また、国道476号の木ノ芽トンネルが

 平成16年(2004)3月、峠下を開通し敦賀市新保・南越前町上板取間が結ばれ、交通が便利になりました。



2 峠下集落

 
(1) 二ツ屋(南越前町二ツ屋)

 日野川の上流、鹿蒜川支流二ツ屋川流域に位置し、四囲を山に囲まれた集落でした。

 二屋という地名の由来は、平安初期に2軒の橋爪家があったからといわれます。

 中世、室町期は二屋という地名で存在し、越前国南仲条郡に属していました。慶長国絵図には二屋村114石余とあります。

 江戸期は越前国南条郡に属し、福井藩領の二ツ屋村として西近江路(木ノ芽道・古代北陸道)の宿場

として発達し、今庄宿から中間の宿駅である合の宿として馬12匹を常備しました。

 慶長7年(1602)から宿場の西方に関所が置かれ、藩士2名と足軽番士2名が警備しました。

 天明7年(1787)には宿場らしく家数も46戸、うち旅籠5軒、茶屋5軒があり、問屋前に制札場もありました。

 とくに幕末には京都方面の旅人が多くなり宿場負担に苦しみました。

 明治期、はじめ鹿蒜村に属しましたが、明治26年(1893)の大火で20数戸を焼失し、

 また明治29年(1896)の北陸線開通などによって宿場交通はなくなり、山村生活に入り人口も減少しました。

 昭和26年(1951)今庄村の大字となりましたが、奥地の不便さから隣りの新道近くに集落が移転しました。



TOP

二ツ屋宿場跡二ツ屋関所跡

TOP


 (2) 新保(敦賀市新保)

 鉢伏山の南西麓に位置し、西近江路(木ノ芽道・古代北陸道)を挟んで両側に集落が立地しています。

 急坂を階段状にした宅地に集落が建ち並び、敦賀市東郷地区で最高、最北の山間盆地にあります。

 当地は本保にあたる葉原保から分かれて保を形成したことから新保と呼ばれるようになりました。

 古くから南条郡今庄に通じる宿駅として発展してきました。

 江戸期は敦賀郡新保村として、はじめ福井藩領でしたが寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)となりました。

 享保12年(1727)の家数49、人数322とあり、当地は小浜藩京極氏時代から木ノ芽峠を境に福井藩領と接したため女留番所が置かれました。

 新保宿は葉原宿より少し遅れた戦国期に設置されましたが、宿駅は敦賀から2里半(約10km)、

 疋田から4里(約16km)、葉原からは半里(約2km)に過ぎませんでしたが、当宿の設置は

 次の二ツ屋宿へ1里半(約6km)の途中、新保から22町(約2.3km)の地点に木ノ芽峠の難所が控えていたことによります。


TOP


3 峠の歴史

(1) 名立たる人達の峠越え


 平安末期から鎌倉期には西行、平 惟盛、木曽義仲、親鸞、道元らが、南北朝期には新田義貞、

 戦国期には蓮如や朝倉一族、織田信長、豊臣秀吉らが峠を越え、しばしば戦場にもなりました。

 江戸期には「奥の細道」の松尾芭蕉が越え、幕末には水戸天狗党が峠を越えました。



(2) 親鸞上人の峠越えと御前水

 承元元年(1207)越後へ流罪となった親鸞は京都から越後へ向かう途中、峠の近くで小休止し、

 錫杖で地面を突いたところ湧水が出ました。これが御前水と呼ばれ峠のすぐ南に残っています。



(3) 道元禅師の峠越えと歌碑


 建長5年(1253)8月、病気で京都へ帰る道元と付き従ってきた徹通がこの峠で別れました。

 道元は「草の葉にかどでせる身の木部山雲に路ある心地こそすれ」と詠んでいます。



木目峠付近の一向一揆各城砦配置図木目峠諸城砦配置図


(4) 各陣営が防御陣地にした木目峠

 天正元年(1573)7月、越前守護朝倉氏を破り越前を領国とした織田信長は、越前攻略に協力した

 朝倉氏被官桂田長俊(前波長俊)を守護代として一乗谷におき、織田方に加担した武士、指導者層を越前各地に配しました。

 ところが桂田長俊と府中城主富田長秀とが対立し、天正2年(1574)1月、長秀は土民を糾合して一乗谷を襲い

 長俊を自殺せしめ、次いで北ノ庄(福井市)の織田方部将を放逐し、一時越前を支配しました。

 かねて本願寺門徒の越前領国化を窺っていた一向一揆勢は、好機到来と富田長秀攻撃の前に

 本願寺門徒と対立してきた専修寺派寺院を襲って血祭りにあげ加賀に増援を求めました。

 天正2年(1574)2月、下間筑後法橋頼清、杉浦壱岐法橋玄任、七里三河頼周らを将とする

 加賀一揆支援のもと本覚寺に率いられた越前門徒は、長秀を長泉寺(鯖江市)において包囲せん滅しました。

 さらに越前門徒は平泉寺を焼打ちし、朝倉景鏡を自殺せしめました。かくて加賀に遅れること1世紀にして越前に門徒領国が誕生しました。

 この頃、織田方は伊勢長島の一向一揆攻めで越前へ兵力を向ける余力がなく

 江州境(滋賀県)を守るために北陸道の要衝木目峠(木ノ芽峠)に砦を構え、守備させるのが精一杯でした。

 また北国街道は小谷城主の羽柴秀吉が守備することになっておりました。

 このような情勢下、越前の織田方諸勢力を掃討した一向一揆勢は、天正2年(1574)6月中旬、北陸道の要衝木目峠へ攻め寄せました。

 当時、織田方は堀次郎秀村の家臣樋口三郎兵衛直房の手勢が砦を守っていましたが、多勢に無勢、救援もなかったので江州(滋賀県)へ退却しました。

 木目峠の織田方を追い払った一向一揆勢は、峠上部の鉢伏山頂(標高761.8m)の鉢伏城に専修寺賢会以下真宗寺の手勢2千余騎、

 その下部に観音丸砦を築いて専修寺、下間筑後法橋の手勢を入れ、木目城(鷹打嵩)には和田本覚寺勢、

 その出城の西光寺丸に石田西光寺の手勢3千余騎を入れて織田方の反攻に備えました。

 また、栃ノ木峠方面の北国街道の守備に七里頼周の手勢800人余が峠から江州側へ下った中河内集落(滋賀県余呉町)付近に陣を張り、

 さらに虎杖(南越前町板取)に城(虎杖城)を新造して下間和泉守、久末照厳寺、宇坂本向寺らの手勢が籠りました。


TOP


(5) 木目峠(木ノ芽峠)の重要性

 戦国期まで江州(滋賀県)から越前に入るには木目峠を越える北陸道が主道でした。

 当時、栃の木峠を越える北国街道は未整備の小道に過ぎず、天正6年(1578)柴田勝家が街道を改修整備するまで重視されていなかったようです。

 この二つのルート以外に敦賀から海岸沿いに杉津(敦賀市)を経て府中(武生市)方面に通じる「大良越え」と呼ばれる道がありました。

 しかし、この道も点在する各集落を繋ぐ杣道程度のもので、多数の人馬が通るような道ではありませんでした。

 ただし、河野浦から府中へ通じる道は、朝倉氏支配の初期から塩など海産物を運ぶための馬借街道(西街道)と呼ばれた良道がありました。



一向一揆各城砦配置図織田軍の一向一揆攻め要図


(6) 織田信長の反攻と一向一揆勢の敗北

 天正3年(1575)8月、織田信長は一向一揆掃討のため柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀など諸将はじめ10万5千余の大軍を率いて三たび越前に侵攻しました。

 本陣は美濃、尾張、伊勢の軍勢3万3千余騎、先陣は明智光秀の案内で丹羽長秀、羽柴秀吉、佐々成政ら

 大和、山城、河内、摂津、若狭、丹波、北近江の軍勢5万余が海津(滋賀県)へ進みました。

 後陣は織田信孝ら織田一族の諸将が率いる1万余騎が、また徳川家康は三河、遠江勢1万3千を率いて北国街道を栃ノ木峠へ向かいました。

 柴田勝家は別働隊として柴田監物、佐久間玄蕃助ら1万2千余騎を率いて進み、

 金森長近、原彦次郎の一隊は美濃(岐阜)から根尾谷を経て大野郡方面へ進みました。

 一向一揆側も決戦に備えて国中の坊主・門徒に対し、早急に各陣地へ馳せ参じるよう触れが廻されましたが、

 門徒の中には「領地を持ち、我々から年貢を取っている方々が戦えばよいではないか。我々は合戦に駆り出される理由は少しもない。」と

 放言する者まで現れ、諸陣へ馳せ参じる者は、ほとんどなかったといいます。

 それというのも本願寺の代官や大坊主衆らが、地元の坊主や門徒たちの願望を無視する支配を続けた結果といえます。

 織田軍の総攻撃は8月15日一斉に始められましたが、作戦の重点は杉津口(敦賀市)の突破と水軍による河野浦(南越前町河野)への上陸作戦に指向されました。

 大手と見られた木目峠口は、一揆方の主力部隊が固めているうえに、攻め口の葉原・新保は谷が狭く、山は険しく、

 強引に攻めれば、いたずらに損耗を増やす要害であることを信長も十分承知していたのです。

 したがって搦手である杉津口の突破と水軍による河野浦上陸によって府中を攻略し、

 木目峠・栃ノ木峠・今庄に布陣した一揆軍主力部隊の退路を扼して、これをせん滅する作戦を立てたのです。

 先陣として丹羽・滝川・伊賀・池田・蜂屋の諸隊が木目峠口に居並んで一揆方の主力を牽制しました。

 一方、搦手の杉津口へ明智光秀・柴田勝家・佐々成政・稲葉一徹などの諸勢が攻めかかり、まず杉津口で戦いの火ぶたが切って落とされました。

 杉津砦を守備する円宮寺勢が木戸口に立ち並んで、寄せ手めがけて弓・鉄砲を撃ちかけたところ、

 一揆勢を裏切った堀江一党が背後から一斉に襲いかかってきました。

 砦内の一揆勢は前後に敵を受けてびっくり仰天、しばし立ちすくんだといいます。

 砦内の者たちが混乱した隙に、寄せ手は木戸を破って乱入し、あちこちに放火したため

 砦は炎上し、一揆勢は総崩れとなって、多くの者が討ち取られました。

 隣接した河野丸砦の守備兵も、これをみて泡を食って河野方面へ逃走しました。織田軍が最も得意とした内応作戦がここでも的中したのです。



(7) 木目峠を守備する一揆勢の戦意喪失と敗退

 天正3年(1575)8月15日早朝、眼下の杉津・河野丸両砦に火の手があがり、

 二つの砦が瞬時に突破されたことを知った鉢伏城・観音丸砦などの守備兵たちは、たちまち動揺して戦意を失ってしまいました。

 杉津口砦の陥落の飛報は、ただちに木目城、さらに一谷隔てた虎杖城にまで広まり、

 城内の者達は我先に城を出て府中(武生市)を目ざして逃げはじめ、最後まで城中に留まった者は極めて少数に過ぎませんでした。

 杉津口の突破から1日おいて、木目峠に攻めかかった織田勢の作戦が功を奏し、

 手薄になった木目峠の各城砦は、抵抗らしい抵抗も示さず次々に打ち破られ、放火されて落城していきました。

 このとき捕らえられた一揆勢が集められて処刑された場所が旧二ッ屋村(南越前町)の山林に「首切り谷」として伝えられています。



(8) 松尾芭蕉の木目峠越え

 元禄2年(1689)8月14日(陽暦9月27日)松尾芭蕉は木目峠を越えて敦賀へ向かいました。

「奥の細道」には「かへる山に初雁をききて、十四日の夕ぐれ敦賀の津に宿を求む」とあります。



(9) 水戸天狗党の木目峠越え

 元治元年(1864)12月11日、水戸天狗党は今庄宿を出発して西近江路(木ノ芽道)に進路をとり、追分の新道村を左折し木目峠へ向かいました。

 途中、40戸ほどの二ツ屋宿で昼食をとり、雪深い峠道を泳ぐように進み木目峠を越え、午後4時頃やっと新保宿に到着しました。



TOP


主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店
越前・若狭峠のルーツ     上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道     吉川弘文館
織田信長と越前一向一揆    辻川達雄著
福井県の歴史         印牧邦雄著





このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください