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高 倉 峠

高倉峠高倉峠付近の風景


1 高倉峠
(福井県南条郡南越前町・岐阜県揖斐郡揖斐町)


 福井県南条郡南越前町(旧今庄町)瀬戸と岐阜県揖斐郡揖斐町(旧徳山村)塚との間にある標高約984mの峠です。別名、日ノ窪峠ともいったようです。

 以前は瀬戸の南にあった高倉(廃村)から峠へ向かう道があったようですが、

 昭和58年(1983)に瀬戸の東にある芋ヶ平(廃村)から峠を越える広域幹線林道塚線が完成しました。

 この峠道は、美濃の木地師が開いたといわれ、また、日本海の塩を美濃の徳山村へ運んだ道でもありました。

 「越前地理指南」には「高倉村ヨリ美濃越ノ道アリ」「火ノ窪峠アリ」と記されています。

 「越前名蹟考」には「美濃国、金屎ヶ岳ノ西ノ麓、日ノ窪峠ヲ越エ至テノ間道ナリ。美濃国図ニ大野郡門入村より越前瀬戸村ヘ越ス歩行路アリ。」

 と記され、以前は「日ノ窪峠」といったものと考えられます。

 峠一帯の標高約1,000m付近には隆起準平原状の平坦地があり、チシマザサが生えています。



2 峠下集落

(1) 瀬戸
(福井県南条郡南越前町瀬戸)

 福井県の南端、越美国境の岐阜県境に近い日野川の支流、田倉川上流域に位置した地域です。

 地名の由来は、田倉川と杉谷川、高倉谷川が急流で合流するところからといわれます。

 江戸時代、越前国南条郡のうちで、はじめ福井藩の府中本多家知行地、貞享3年(1686)から幕府領、

 明和元年(1764)から三河西尾藩領、文政元年(1818)から幕府領、明治元年(1868)から福井藩預り地と変遷しました。

 村高は田方135石余、畑方194石余の合計329石余で、文政4年(1821)宗門人別帳では、家数82(うち百姓39、木地師43)、人数377(男172、女165)、牛5とあります。

 当地の高倉や芋ヶ平には、木地師が移住してきて集落を形成した枝村があり、芋ヶ平は高倉木地師と美濃国木地師の移住で集落を形成したといわれます。

 明治維新後、昭和35年(1960)頃まで、養蚕や木炭を副業の中心としてきました。

 また、当地には江戸中期の医者伊藤助左衛門が造園した築山泉水の伊藤氏庭園があり、昭和7年(1932)国名勝に指定されています。

 枝村だった芋ヶ平は、明治28年〜29年(1895〜1896)の大洪水のため、福井県が山林の大部分を保安林に指定したので生活を維持するため、

 明治35年(1902)頃、28戸中13戸が春江町近辺に移住しました。

 もう一つの枝村、高倉は昭和40年(1965)全戸が移住し、また昭和55年(1980)には芋ヶ平が無住地になりました。



(2) 塚(岐阜県揖斐郡揖斐町)

 冠山の南麓、揖斐川源流付近に立地した美濃の峠下集落があったところで、古くから冠越(冠峠)、高倉峠、檜尾峠などを経て越前に通じる道筋にありました。

 地名の由来は、追手から逃れて落ち延びた二条天皇が三軒屋(揖斐町櫨原のうち)近くの崖で

 足を踏み外して一命をなくしたため、その遺体を葬った塚があるからといわれます。

 当地には歩危尻
(ほきしり)という地名が残り、二条歩危に由来するといいます。「つか」という地名は室町期には見え、美濃国大野郡に属していました。

 江戸初期に徳山村から分村、旗本更木徳山氏知行地となり、村高39石余の畑作中心の山村でした。

 明治2年(1869)の戸数18、人数117で、以後、徐々に増加しています。

 村民は真宗誠照寺派越前西福寺(福井県鯖江市)と本巣郡専念寺(岐阜県本巣市根尾東板屋)の檀家に分かれていました。



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国名勝の伊藤氏庭園芋ヶ平の蓮如上人旧蹟


3 高倉峠の歴史


(1)「瀬戸」の平家落人伝説


 源平の戦いに敗れた平家の落武者が、宅良谷へ逃げ込み、そのまま瀬戸に住みついて百姓になったといわれます。

 その後、伊藤家一族を除いて子孫は絶えましたが、伊藤家は宅良郷の大庄屋として活躍したそうです。

 現在、瀬戸には橋が架かっていますが、昔は、この付近の橋が藤蔓などでつくられ、

 平家の追手がくると下の橋から順次、蔓を切って橋を落とし、敵から逃れたといいます。

 今も伊藤家は旧家として屋敷が残っており、伊藤氏庭園として有名です。

 庭園は江戸時代の庭園図本をもとにつくられたもので、昭和7年(1932)国の名勝に指定されました。



(2) 南北朝時代、脇屋義助らが越えた道

 美濃の徳山地方は南朝方武将、徳山氏の本拠地でしたが、延元4年(1339)越前国内の戦に敗れた

 南朝方武将、脇屋義助らは高倉峠など越美国境にある諸峠を越えて根尾方面に逃げました。

 他方、南北朝時代を通して、およそ200年間、美濃国を支配したのは、清和源氏の流れを汲む土岐氏で、土岐郡土岐郷を本拠に繁栄してきました。

 なかでも、土岐頼貞は足利尊氏の片腕として足利氏に奉公し、ついに、美濃国を支配して美濃守護になりました。

 ところで、時代を遡った延元2年(1332)揖斐郡長瀬及び谷汲において南北朝間の戦いが始まりました。

 このとき、大野郡徳山村本郷を居城とした豪族徳山五兵衛は、越前の杣山城主、瓜生 保や新田義貞ら南朝軍と連携して北朝方に対抗しました。

 延元2年(1332)3月、越前金ヶ崎城が陥落すると、今度は新田義貞の一族である堀口貞満が美濃谷汲城に立て籠もって北朝方に対抗しました。

 また、南朝方には越前の今庄九郎入道父子もおり、徳山城主の本拠地とする徳山地方と

 背中合わせにあった越前今庄郷を支配する今庄九郎父子とは連携していたことも考えられます。


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(3) 徳山二郎右衛門貞輔、越前守護朝倉敏景に仕える

 高倉峠も、前述のように古くから人の往来があったものと考えられますが、史料に見られるのは中世の頃からです。

 それは美濃徳山城主、徳山二郎右衛門貞輔が文明4年(1472)朝倉氏に仕え「大塩保」(越前市王子保付近)を拝領したことから、

 この峠道の改修に着手し、領地となった大塩保を管理し朝倉館に参勤するために高倉峠や冠越を利用したと伝えられます。

 一説によれば徳山氏は、かつて南朝方に属して越前を転戦したとき、美濃側の北朝方に塩の道を押さえられ、

 その後は土岐家や斎藤家によっても塩の移入を遮断されて、しばしば領民とともに苦しい思いをしたといわれます。

 このように昔の武将は、よく「塩攻め」という手を使いましたが、徳山二郎右衛門が朝倉家の臣下になった理由の一つに「塩」の入手が考えられ、

 その頃、越前の大塩は敦賀湾沿岸で生産される塩を一手に引き受けていたと考えられます。

 「塩座」があり、越前国内に販路をもっていた徳山家は、この塩と大塩保でとれた年貢米を

 高倉峠を利用して運ばせ、参勤に便利なように道の改修にも努めたようです。

 米、塩を確保すれば、軍略的に揖斐川沿いの下流の道が遮断されても生活上支障はなく、

 領民に平和な生活をさせることができたからこそ朝倉家に仕えたものと思います。



(4) 蓮如上人旧跡(福井県南条郡南越前町芋ヶ平)

 文明3年(1471)本願寺第8世蓮如上人は、本願寺破却のおり比叡山の山法師に追われ、やむなく難を逃れて西近江路を通って越前へ下向しました。

 このとき上人は今庄から宅良谷へ入り、芋ヶ平の岩屋(蓮如窟)でしばらくの間、

 匿われましたが、このとき近くに住む老婆が三度の食事を運び、そのうち信者になりました。

 老婆と別れるとき上人は、形見に六字の名号を与え、「こいしくば南無阿弥陀仏を唱うべし、われも六字のうちこそ住め」という歌を残して去ったといいます。



(5) 木地師の集落「高倉」「芋ヶ平」

 越前側の峠下に、かつて高倉、西高倉、芋ヶ平という集落があって、いずれも木地師
(注1)が定着した集落だといわれます。

 高倉、西高倉は、芋ヶ平よりも早く定着した集落で、近江(滋賀県愛知郡東小椋村君ヶ畑)の

 木地師達が山越えで美濃の徳山から大河内や岩谷を経て移り住んだといいます。

 芋ヶ平は、15世紀末に近江(滋賀県)か美濃の徳山(岐阜県)から越前の高倉へ渡った木地師達が移住して定着したのが始まりと伝えられます。

 「轆轤」という特殊な工具を使って椀や盆など円形の木地を作ったり、また杓子を作ったりする人のことを木地師とか轆轤師と呼びました。

 流離性の強い彼等は、良い原木があれば、そこに仮泊し掘立小屋で生活し、道がなくても尾根伝いを移動して村を形成しました。

 川上から「お椀」が流れてきて、下村で暮らしていた人が川の上流に人が住んでいることを知ったという御伽噺みたいなこともあったようです。

 普通、人々は川の下流から上流へと開拓し、上流に「河内」とか「田代」といった村が形成されましたが、木地師たちは、このような道順をとりませんでした。

 原木を求めて尾根伝いを移動する場合が多く、下流の村落と無縁の隔絶した孤村が川の奥に出現し、また忽然と消滅するような場合もあったようです。

 越美国境の集落には、こうした発祥をもつ集落が多くあり、木地師達は惟喬親王
(注2)

 祖として山に入り、天下御免のお墨付(綸旨)を所持して木地原木を求め各地を移動しました。


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(注1)木地師
 
 
木地の挽き物をつくっていた人を木地師、轆轤師といいました。13世紀の鎌倉期には木工から分化していたようです。

 木地師の中には木材に恵まれた各地の山村に集落をつくり、椀、盆、杓子、こけしなどの日常生活用具をつくっていた者も多かったようです。

 なぜか、木地師は文徳天皇の皇子、惟喬親王を祖神とする伝承をもっており、近江(滋賀県)の愛知郡東小椋村(神崎郡永源寺町)の君ヶ畑と蛭谷(ひるたに)とが発祥地とされます。

 鎌倉期以来の木地屋文書を持ち、職人として独特の習俗を残しています。小椋、小倉の姓を名のる者は木地師に縁のある者で各地に分布しております。

 木地師は轆轤師ともいわれるように挽き物の道具は轆轤であり、日本の古い工作道具の一つで、この轆轤は横軸で一人挽きの手挽き轆轤のことです。




(注2)惟喬親王(これたかしんのう)

 
平安時代の承和11年(844)〜寛平9年(897)に在世した文徳天皇の第一皇子です。

 当初、天皇は惟喬親王を皇太子にしようとしましたが、皇后藤原明子に惟仁親王が生れたため、外戚の藤原良房をはばかって嘉祥3年(850)、惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にしました。

 天安元年(857)14歳で元服し、四品(しぼん)を授けられて太宰帥(だざいのそち)、弾正尹(だんじょうのかみ)などを歴任しました。貞観14年(872)病により出家して比叡山麓の小野に幽居したといいます。




参考:木地師の故郷

 近江の八風街道に沿って流れる愛知川の支流、御池川沿いの小椋谷に蛭谷、君ヶ畑という二つの集落があります。

 ここが江戸時代、全国に展開する木地師の元締めとして重要な役割を果してきた所です。

 彼等は移動性を有する職人であり、原料となる木材を求めて各地を渡り歩き、製作に従事しました。

 原材料が不足すると移動するのを常としたため、諸国通行を可能とする往来手形やその裏付けとなる天皇の綸旨、武家の免状などを携帯していました。

 江戸時代、これらの文書(又は写し)を全国の木地師に発行し、また、技術保存に有利な同族婚姻を斡旋するなどして、

その代償に「氏子狩
(うじこがり)」と称し、奉加料、烏帽子着料などを徴収していたのが蛭谷、君ヶ畑でした。

 他方、平安時代前期、文徳天皇の皇子、惟喬親王が皇位継承の望みを断たれ逃亡し流浪、

小椋谷に隠棲して土地の人々に轆轤を用いた木地椀などの製法を教授したとの伝承を根拠に「氏子狩」は16世紀には開始されていたようです。

 もとより、この地は中世、小椋荘(摂関家領)の領域だったところで、蛭谷、君ヶ畑は建築用木材の伐採、搬出を生業とする杣(そま)に属しました。

 律令制のもと中央、地方の官衙や寺院に所属した諸職人が律令制の崩壊とともに、その職能を元手に自立していくなかで、木工職人が材料を求めて、こうした杣に来着したと想像されます。

 このように中世、椀、盆など生活雑器の製作技術が、この地で発展し製作職人を輩出する素地が存在したわけです。

 しかし、ここが木地師発祥の地であることを周囲に認知させていくまでには、多くの政治的労力を要したと思われます。

 近隣の大君ヶ畑(滋賀県多賀町)との争論は著名であり、また、各地の木地師も以仁王、安徳天皇、平家一門などと、それぞれ祖先伝承を有していたからです。

 いうまでもなく惟喬親王が、この地に隠棲したことを確かめることは至難であり、歴史上、親王の隠棲理由は病であり、隠棲地も比叡山の小野とするのが通説です。

 しかし、「氏子狩」が機能し、多くの木地師が小椋氏(又は大岩氏)を称していることも、また事実です。

 悲運の皇子は、木地師の神として、再び歴史上の役割を与えられることになったわけです。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典  角川書店
山々のルーツ    上杉喜寿著
峠のルーツ     上杉喜寿著
日本大百科全書     小学館
近江・若狭と湖の道 吉川弘文館







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