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熊 川 越

〜 水 坂 峠 〜

水坂峠付近水坂峠付近


1 熊川越
(水坂峠)(滋賀県高島市今津町杉山)

 「熊川越」というと福井県に接する峠と間違われそうですが、実は滋賀県にある水坂峠のことであり、別称を熊川越といいました。

 古くから若狭(福井県)と近江(滋賀県)を結ぶ標高277mの分水嶺に当たる峠なのですが、

 ここが江若国境とはならず、峠から若狭側へ3kmほど下ったところが境界となり、

 峠を挟んで近江国の杉山村(今津町杉山)と保坂村(今津町保坂)がありました。

 往古から若狭湾と琵琶湖を結ぶ重要な役目を果してきましたが、長い間、この付近は急カーブと冬季の積雪、凍結などで交通の難所といわれました。

 明治期(1868〜1912)以降、幹線交通路から外されて、一時は全く衰退しましたが、

 昭和45年(1970)国道303号に昇格、関西と若狭を結ぶ経済、観光道路として脚光を浴びて道路の拡幅改良が進み、

 峠のすぐ北には水坂トンネルも貫通して若狭から京都への短絡路として、現在では交通量が増加しています。

 旧道は新国道よりやや高所に古道の面影を見せて残っておりますが、昔は九里半街道、

 若狭街道、今津街道、大杉越、熊川越、巡礼道、鯖街道などと多くの名前で呼ばれました。


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2 峠下の集落

 峠下集落を単純に示せば、いずれも近江国にある杉山(高島市今津町杉山)と保坂(高島市今津町保坂)になるのですが、

 ここでは若狭小浜と近江今津を結ぶ峠道のほぼ中間に位置し、諸物資運送の

 中継地として重要な役割を果した熊川村(福井県若狭町熊川)も併せ記すことにします。

 なお、江若国境は水坂峠を若狭側へ下ったところにあった上大杉村と下大杉村との中間を流れている谷川が境界になっていました。

 上大杉村は明治7年(1874)隣村の山中村と合併して杉山村となり、下大杉村は熊川村に吸収されました。


熊川宿(若狭町熊川)熊川宿(若狭町熊川)


(1) 熊川村(福井県若狭町熊川)

 熊川は北川上流域の山間部に位置した集落で江戸期は熊川宿として栄えたところです。

 現在、国の重要伝統的建築物群保存地区になっており県内外の観光客で賑わっています。

 ここは古代から若狭の海産物を都へ運ぶ道筋に当たり、また、軍事的にも重視されました。

 室町期(1336〜1573)には沼田主計が熊川城を築き、その子勘解由が熊川城主になったと伝えられます。

 沼田氏の在城は永禄12年(1569)頃まで続いたようですが、この頃、北川上流右岸にあった瓜生村(若狭町瓜生)を本拠とした

 松宮玄蕃允清長と戦い、これに敗れて近江へ落ちたので、清長の子左馬亮が城主になったといいます。

 元亀元年(1570)4月22日、織田信長が朝倉義景討伐のため越前へ侵攻する途中、熊川に着陣しますと

 熊川城主松宮嫡子左馬亮は若狭国内の諸将とともに信長を出迎え、信長は「若州熊川松宮玄蕃所」に宿泊しました。

 その後、天正7年(1579)浅野長政は交通の要衝である熊川を諸役免除の地とし、熊川陣屋を設けて町奉行を置くなど宿場町発展の基礎を築きました。

 熊川村は江戸期、遠敷郡に属した小浜藩領の村高172石余〜220石余の村でしたが、

 元和5年(1619)諸役免除の地と定められて以後、小浜港に陸揚げされた北国からの

 諸物資を京、大坂へ送る街道筋の重要な宿場町として栄え、最盛期には年間2万駄の通行があったといわれます。

 このため、寛永8年(1631)には河舟九右衛門の普請によって小浜・熊川間の北川に河船が運航されました。

 元禄15年(1702)には問屋職6人の名が見え、その後は8人になったようであり、

 享保11年(1726)の「御用日記」には熊川宿の家数213軒、人数1175人とあります。

 小浜・今津間の距離が九里半であったことから、この道は九里半街道とも呼ばれ、諸物資運送の最大の宿場町(中継地)として賑わいました。

 また、西国33ヶ所の巡礼が丹後から若狭小浜、熊川を経て近江の竹生島へ通う道筋

 に当たりましたので巡礼道とも呼ばれ、商人のほか多くの巡礼者も通行した道でした。

 こうして熊川村が街道の重要地になるとともに口留番所が設置され、主に女人の通行を改めました。


熊川番所(若狭町熊川)熊川宿(若狭町熊川)


(2) 杉山村(滋賀県高島市今津町杉山)

 水坂峠から約2km北西に下った高島市今津町の西端に位置し、国道303号に沿った山間の農業地域です。

 保坂村の北西にあって分水嶺を越えているので、当地の水は日本海(若狭湾)へ流れています。

 江戸期、この付近には上大杉村、山中村の2村が存在し、山中村には主に女性の通行を

 改めた国境警備の山中番所(関所)が置かれ、旗本朽木氏が関を管理していました。

 これについて「ういよ、つらいよ山中番所、降れど、ふぶけど笠ぬがす」と詠われています。

 一方、文正元年(1466)7月「江州山中関一方給主職」が西勝坊栄慶から安養坊春憲に譲られ、

 文明13年(1481)春憲の息子宝積坊春澄から宝光坊猿菊丸に100貫文で売られた

 山中関の記述がありますが、この山中関が保坂関を指すかどうかは不明です。

 山中村、上大杉村とも慶長5年(1600)から明治初年(1868)まで旗本朽木氏領に属し、

 村高は山中村が45石余、上大杉村が55石余とありますが、家数、人数は分かりません。

 明治7年(1874)2村は合併して杉山村となり、明治13年(1880)の戸数37軒、人口131人とあり、農業のかたわら炭や石灰を焼き、養蚕に従事していました。

 明治22年(1889)高島郡三谷村の大字となり、昭和30年(1955)高島郡今津町の大字になりましたが、その頃の戸数は10軒、人口は23人と記されています。


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保坂村(滋賀県高島市今津町保坂)今津町保坂にある街道の分岐点


(3) 保坂村
(滋賀県高島市今津町保坂)

 水坂峠から南東へ約2㎞下った今津町西部の山地集落で、琵琶湖畔の今津と若狭湾の小浜を結ぶ九里半街道(国道303号)と

 高島市を南北に走り朽木谷を経て京都へ通じる若狭街道(敦賀街道とも呼ぶ。国道367号)が交差する街道の要地です。

 今でも分岐点の近くに「左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村(安永4年)」の道標が残っています。

 高島郡に属した保坂村は、慶長5年(1600)旗本朽木領となり村高82石余がありました。

 明治13年(1880)の戸数37軒、人口177人とあり、村人は農業のかたわら養蚕と炭焼きに従事していました。

 明治22年(1889)高島郡三谷村の大字となり、昭和30年(1955)今津町の大字となりましたが、この頃の戸数は32軒、人口は139人と記されています。

 当地には中世、室町期から保坂関が置かれて比叡山の管理下にあり、その関務は朽木氏が預かっていました。

 この関の設置年代は、文明4年(1472)以前であることは確かで、朽木家古文書にみえる保坂関からは享徳年間(1452〜1455)頃まで遡る可能性があるということです。

 しかし、この関は複雑な権利関係にあったようで、度々、紛争が起こっています。



3 峠の主な歴史

(1) 古代北陸道の峠道


 この峠道は、飛鳥期から大和朝廷と若狭国府を結んだ古代北陸道の道筋に当たり、往古に開発された峠道です。

 若狭湾と琵琶湖を結ぶ諸ルートのうち、最も起伏が少なく古代北陸道の三尾駅(安曇川町三尾里に比定)から分かれて水坂峠を越え

 玉置駅(若狭町玉置に比定)を経て若狭国府に達した官道であり、また、若狭の海産物、

 塩などが近江勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、ここから湖上で大津へ回漕されて都へと運ばれました。

 このように古代の若狭・越前からは北陸道を陸路で琵琶湖の北岸へ出て勝野津、塩津から大津まで船で諸物資を運送するのが主要ルートでした。

 また、古代若狭国の租税は、この峠道を通って勝野津(高島市高島町)へ運ばれ、湖上を大津へ回漕されました。



(2) 中世以降、諸物資運送で盛んになった峠道

 平安遷都以降、若狭と京都を結ぶ道として保坂で分岐し、朽木谷を経て京都へ向かう道(現国道367号)と

 木津を経由して湖上を大津、京都へ向かう道(現国道303号)の2本の往来が盛んになります。

 とくに中世以降、若狭小浜津(古津、西津)から湖西の諸湊への諸物資運送の道として重視されました。

 飛鳥・奈良期以降、勝野津へ運ばれた諸物資は、平安中期以降は木津(高島市新旭町)へ運ばれ、やがて中世後期には今津(高島市今津町)が台頭してきます。

 室町期になると若狭小浜湊は北からは津軽船、南からは南蛮船が着く湊に成長し、

 街道は若狭小浜から今津への経路が主流となり、この間の距離が九里半あったことから九里半街道と呼ばれました。

 こうして中世から近世前期には交易の発展とともに北陸諸国の貢米や特産物の京への輸送路として小浜・今津間の九里半街道が幹線交通路になりました。

 この街道の通商権を高島・今津などの商人連合である五箇商人が握り、享禄年間(1528〜1531)以降、湖東の保内商人が割り込んで争論になるなど重要な街道でした。



(3) 織田信長が越前侵攻で通過した峠道

 元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の朝倉義景を討つため京都を出発しました。

 これに従う武将は徳川家康、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀らの錚々たる面々で、

 その数、拾数万とも一説では3万とも云われる織田軍勢が近江坂本から琵琶湖の西岸にある

 西近江路を北上し、若狭方面へ折れて水坂峠を越えて若狭熊川で一泊しました。

 その後、敦賀の手筒城、金ヶ崎城を攻略し、朝倉氏の拠る一乗谷へ迫ろうとしたときです。

 信長は北近江一帯を支配していた信長の妹婿、浅井長政が朝倉方に味方したことを知りました。

 急遽退却しなければ両軍に挟まれ袋のネズミになることを察知した信長ですが、

 岐阜へ戻る道は閉ざされ、京都へ戻るには琵琶湖畔に布陣する浅井軍、六角軍を破らなければなりません。

 また、朽木谷を通り抜ける道が京都への近道でしたが、そこは浅井氏と和議を結んだ朽木氏がいました。

 信長が思案していると松永久秀が進み出て「私が朽木元綱を説得します」と言い切りました。

 久秀といえば主君の三好長慶を滅ぼし、将軍義輝を自殺に追い込み、東大寺大仏殿を焼き払った男です。

 信長は切迫した危機を脱出するため、この恐るべき野心家に賭けました。

 すでに60歳を越えていた久秀は、山道を駆けて朽木へ行き、元綱に会いました。

 久秀と元綱は信長の勢いに賭けることを決め、元綱は幼い息子を人質として差し出すことで信長に恭順の意を示しました。

 信長はわずか10人ほどの手勢を率い、夜陰に紛れて国吉城の粟屋勝久の誘導で朽木に入り、

 元綱に迎えられた信長は館で休息後、元綱配下の案内で馬に乗り、険しい山道を南下し、花折峠から大原を抜けて京都へ無事辿り着きました。

 その後、元綱は信長の家臣となり、秀吉の政権下で従五位下河内守となって検地の任に携わったことが知られます。

 松永久秀は7年後、信長に攻められ信貴山城で滅びました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県 角川書店
日本歴史地名大系 滋賀県の地名 平凡社
鯖街道           向陽書房
越前若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
越前若狭歴史街道     上杉喜寿著
「福井県史」通史編 1  中世  福井県





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