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温 見 峠




温見峠の地蔵現在の温見峠


1 温見峠(福井県大野市温見と岐阜県本巣市根尾の境界)

 福井県と岐阜県の県境、能郷白山の北の鞍部にある標高約1,050mの峠です。

 現在、この峠を国道157号が通っていますが、古来、美濃と越前を結ぶ主要道路だったといわれ、

 鎌倉時代は越前府中(武生市)と鎌倉(神奈川県)を結ぶ最短交通路でした。
             峠の地図はここです。

 南北朝期には南朝の脇屋義助らが越え、戦国期には朝倉氏が美濃へ攻め入り、柵を構えたといわれ、

 朝倉滅亡後は織田信長が越前一向一揆との戦で、ここからも越前に攻め入らせています。

 江戸初期、越前領主になった結城秀康は、ここに関(番所)を設けて敵の侵入を監視させましたし、

 下っては、鯖江誠照寺の門主が美濃檀家廻りの巡回路として利用しました。

 明治期以降、この峠を越える人は次第に絶え廃道になっていましたが、国道の整備改修によって自動車が通れるようになりました。

 しかし、豪雨や積雪で通行止めになることが多く、峠下にある福井県側の温見や岐阜県側の大河原などは廃村になりました。



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2 峠下集落

(1) 温見
(福井県大野市温見)

 真名川の支流、雲川の最上流域右岸に位置したところに集落がありました。

 東に姥ヶ岳、北に倉ノ又山、越美国境に連なる冠山・若丸山・能郷白山・越山が村の際を西から南へそそり立っています。

 温見峠は能郷白山と越山の稜線鞍部にあり、細く険しい山道が通っていました。

 中世、戦国期に温見の地名が見え、越前国大野郡に属しました。

 江戸期、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)から幕府領となりました。

 福井藩の時には温見峠に番所が設置されていました。

 地内北方の温見川東岸に温見金山があり、戦国期から江戸初期にかけて繁栄したといいます。

 明治初期の戸数13、人口160とあり、焼畑・植林・炭焼き・木地屋・養蚕に従事して生活していました。

 昭和34年(1959)伊勢湾台風、同36年(1961)第2室戸台風、同38年(1963)のいわゆる三八豪雪で甚大な被害を受け、

 絶望と恐怖のうちに昭和39年(1964)離村し、無住地となりました。




(2) 大河原(岐阜県本巣市根尾大河原)

 大河原は蝿帽子峠で紹介しましたので、ここでは省略いたします。


旧温見地区図温見集落跡から温見峠を望む

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3 温見峠の歴史


 温見峠は、古くから白山信仰の美濃口として白山禅定道を登拝する白山講のとき、美濃の信者が群れをなして峠を越す道筋として重要な役割を果しました。

 南北朝期には、南朝方に与した美濃の部将堀口美濃守貞満が、延元3年(1338)3月の敦賀金ヶ崎合戦で

 多くの将兵を失い、越前各地での転戦でも利あらず、この峠を越えて根尾谷へ退却しております。

 また、延元3年(1338)秋には、脇屋義助も新田義貞とともに北庄付近の灯明寺畷の合戦で義貞を失い、

 自分も命からがらこの峠を越えて根尾城に退き、再起のチャンスを待ったと伝えられます。

 越前平泉寺が隆盛を極めていた頃は、多くの僧侶達が布教のため美濃側峠下の根尾谷をはじめ神崎川や板取川の谷々まで教線を伸ばしたといいます。

 平泉寺滅亡後、これら平泉寺末の多くの寺院が鯖江誠照寺末として吸収されました。

 なお、この道は鎌倉街道とも呼ばれ、越前から鎌倉への最短コースとして利用されたようです。

 天文11年(1542)、越前守護朝倉氏の軍勢が根尾・徳山谷から美濃ヘ攻入り、杉原城で合戦したとあります。

 このように古くから、宗教上、軍事上の要地だったので越前守護朝倉家は、西谷代官中嶋中務尉景智を温見に配して、この峠に柵を構え、防備を厳重にしました。

 また、峠下の温見村には金山があり朝倉氏100年の家計を支えと伝えられます。

 天正3年(1575)7月、織田信長の一向一揆討伐のとき、搦手の部将金森長近や原彦次郎らの一隊は、この峠を守備していた一揆勢を討ち破って越前に進攻したとあります。



温見集落跡「ふるさとの碑」温見の山斜面にあるマサカド墓


4 温見村の「マサカド祭」

 旧温見村の白山神社近くに「マサカド墓」と呼ばれる室町期型式の宝篋印塔があります。

 この地方の豪族だった小沢将門の墓だったとも源平合戦に敗れた落武者、平将門の墓だともいわれています。

 冠山の戦いで源氏に敗れた平将門が温見、小沢、平家平の間を行き来したという伝承がありますし、

 また、文政12年(1829)の専念寺由緒書に次のように書かれています。

 「北庄城主だった柴田勝家が滅亡した頃、温見に小沢入道政門がいて、波多野専念坊に帰依し村内に専念坊を建てたが、

 元禄年間(1688〜1703)、この寺が美濃根尾谷に移転したため、村には道場が残された」とあります。

 そして、旧温見村にマサカドの子孫という三家が「三人衆」と称し、三人衆を含む五人衆などにより村の政治が采配されました。

 毎年、2月3日に行われた氏神白山神社の宮参りと道場で行う直会をマサカド祭といい、

 宮座の古式を厳しく伝承し、昭和36年(1961)の白山神社焼失まで続きました。

 越美国境近くの村々には、これに関連した次のような伝承があります。



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(1) 胴坂峠と小沢将門の死

 温見村の北方にあった熊河村との間に「胴坂」(胴坂峠ともいう)という坂がありました。

 かつて、温見谷一帯を支配した小沢将門の死後、首と胴をこの「胴坂」で切り分け、胴は隣村の小沢谷の小沢村へ、

 首は温見村白山神社付近に埋葬し、これを「将門墓」と呼んだといいます。



(2) 小沢村の将門墓

 笹生川の支流小沢川上流左岸に小沢村がありました。

 この村には平将門(小沢将門)が当村と平家平、温見村を往き来したという伝承があり、ここにも将門墓と伝える板碑があります。

 この板碑には「□永三年八月 □禅定門法界」と刻まれていて、近くの畑の中に残る七人塚は、7人の侍が死んだ場所だといわれます。

 板碑にある「□永三年八月」とは、源平合戦に敗れた平家落人が各地に逃げ延びた寿永3年(1184)でないかと推測されます。



(3) 塚村のマサカド伝説

 越美国境にある冠山峠の岐阜県側峠下に、かつて塚(旧徳山村塚地区)という村があり、ここに温見村伝説に関連した次のような伝説が残されています。

 昔、源平の争いが盛んだった頃、東谷
(ひがしたに)地域の塚村にオザワマサカド(タイラノマサカド)と呼ぶ豪族がいました。

 その頃、美濃地方に勢力を持っていた源氏は、平家方のマサカドを滅ぼそうと、

 しきりに攻めたて、ついにマサカドは冠山の戦いに敗れ、越前の小沢を経て温見(ぬくみ)へ逃げました。

 その後、そこに住み土地を切り開いて暮らしたということです。ある正月、マサカドは年頭の挨拶に小沢村に出かけ、そこで亡くなりました。

 そのとき、マサカドの死体をどこに葬るか、兄弟が互いに争い、ついに兄は死体を布団に包んで雪の中を運び出しました。

 ところが雪が多くて運び出すことができず、途中で死体を二つに切って分け、

 首の方は温見、胴の方は小沢に埋葬したといいます。その墓が今日でも残っているというわけです。



(4) 源平合戦の伝承


 岐阜県側の根尾東谷にあった塚村に、もう一つ次のような源平合戦の伝承があります。

 源平山岳戦で、温見谷(福井県大野市温見)に陣を敷いた平家方に対し、徳山谷(岐阜県揖斐郡揖斐町)から攻め上ったのが源氏方でした。

 両軍の申合わせで、明朝、冠山を戦場にして決戦することになりました。その前夜、平家方は兵を出して敵の動きを偵察させました。

 すると山麓の狂小屋
(くるいこや)辺り一面に火が見えたため、源氏の軍勢は、

 まだ山麓にたむろしているなら急ぐこともあるまいと速断し、山稜まで登らず途中で野宿しました。

 ところが、その火は源氏方の謀
(はかりごと)だったのです。山麓に軍勢が止まっているように

 見せかけ、ひそかに火を消して冠山の頂上まで移動させていました。

 夜が明け、平家の軍勢が勢い込んで冠山山頂めがけ突進しますと、山頂には源氏の白旗が一杯翻り、平家方は大敗を喫したといいます。

 この敗北で平家方は、あちらこちらの山峡へ落ち延び、その一部が遥か谷を見下ろすと

 なんとなく温かそうな山懐を見つけ、そこを隠れ家にして温見谷と名付けました。

 こうして平家落人伝説は、越美国境付近の村々の伝承や「屏風山」「平家平」といった地名となって伝わっています。



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主な参考文献

日本地名大辞典 角川書店
峠のルーツ  上杉喜寿著
山々のルーツ 上杉喜寿著
美濃の峠  ホームページ





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