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大 坂 ・ 宅 良 坂

南越前町杣木俣口付近池田町東俣方面からの道


1 大坂(峠)
(南条郡南越前町・今立郡池田町)

 南越前町(旧今庄町)杣木俣と池田町東俣の間にある約4kmの坂道です。

 旧道は段ヶ岳(標高729m)の南東1km付近で標高約565mの峠を越えた尾根伝いの道でした。

 かつて、旧県道西角間今庄線が通り、その後、主要地方道今庄池田線となり、

 現在は国道476号になりましたが、峠下付近の自動車通行は不能です。
           
峠の地図はこちらです。

 大正9年(1920)県道に編入され、大坂道として改修されましたが、勾配が急なため

 再三変更され、旧角間線のユリ峠の下にトンネルを開削する計画がありました。

 現在、南越前町の大字である杣木俣と杉谷は、中世戦国期には池田郷に属しており、この坂道は頻繁に利用されたようです。

 また江戸時代は、大野、池田の人達が伊勢参宮や本願寺詣に近道である、この峠を利用しました。


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2 峠下集落

(1) 杣木俣
(南越前町杣木俣)

 日野川の支流、田倉川の最上流域に位置し、周囲を山地に囲まれた集落です。

 地名の由来は田倉谷が従者郷
(しとべのごう)といわれた頃、隣の池田谷は曽博郷(そはくのごう)の中に含まれていました。

 そこから分かれたので曽博俣となり、ほとんど杣人が暮らしていた意味も重なって、杣木俣に変わったといわれます。

 江戸期は杣木俣村として越前国南条郡に属し、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)から幕府領、明和元年(1764)から三河西尾藩領となりました。

 村高は田方69石余、畑方70石余の計139石余で、当村は木地師が多く住み、

 当地の下り町谷は鉛や亜鉛の鉱石掘り、また、山の葛根掘りや林業で生計を立てていました。

 薪、木材は大八車で小倉谷慈眼寺の門前まで運び、そこから田倉川を筏で流して府中や福井へ販売しました。

 明治4年(1871)の越前宗門帳によると戸数24(うち庄屋1、高持18、無高5)、人数125(男63女62)とあります。



(2) 東俣(池田町東俣)

 魚見川支流の東俣川流域に位置し、中世、越前国今南東郡池田庄各間郷内の集落で、

 地名の由来は定かでありませんが、魚見谷の東側にあるところから名付けられたとのことです。

 当地、東俣には、古くから「池田の三関」と呼ばれた関所が設けられていたといいます。

 他の二関は、志津原、水海にありました。

 また、当地には天台宗平泉寺末の善教寺という寺がありましたが、天正年間(1573〜1591)の一向一揆で破却され廃絶したといわれます。

 江戸期は越前国今立郡に属し、はじめ福井藩府中本多氏知行地、貞享3年(1686)から幕府領、

 元禄5年(1692)から大坂城代土岐頼殷領、のち幕府領を経て享保5年(1720)から鯖江藩領になりました。

 村高は田方152石余、畑方28石余の計181石余で、元禄年間の家数50、人数198、享保6年(1721)の池田郷中村々明細帳では

 家数27、人数175(男117女58)、文化15年(1818)の村高家数人別寺院留帳では家数79、人数370とあります。

 元治元年(1864)12月、上洛を目指す水戸天狗党の武田耕雲斎一行が東俣組大庄屋を勤めた

 飯田彦治兵衛家を本陣にして一泊し、大坂(峠)を越えて今庄宿へ向かいました。


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3 大坂(峠)の歴史


(1) 鳥居峠とも云われた大坂(峠) 

 往古、峠に鳥居があったので鳥居峠といわれたそうです。「鳥居」は、ここから神域であると標示するものですが、

 通常、その近くに本殿があるか、あるいは「岩座
(いわくら)」があるか、または山が神体山であったりする場合に鳥居が立てられます。

 この大坂の鳥居は、麓の杣木俣村にある白山神社の大門先にあたり、往古、この一円は「曽博郷」といわれました。

 白山神社は曽博郷の総社と伝えられ、氏子にあたる池田角間郷中の人々は、峠を越えて参詣していましたが、

 その後、郡域が変わったため峠の鳥居まで登って代拝したとか、また、この付近が白山伏拝みどころとして、曽博郷の人が登ったとか諸説あります。



(2) 平泉寺衆徒、峠を越えて燧が城に入る

 「源平盛衰記」に寿永2年(1183)4月、木曽義仲が上洛の折、加勢を頼まれた平泉寺衆徒、

 一千余騎は長吏斉明に率いられて大野、池田に出、この峠を越えて今庄の燧が城に入りました。

 しかし、平家の甘言に釣られて節を破り、木曽義仲に苦杯を舐めさせた話は有名です。



(3) 水戸天狗党の大坂越え

 元治元年(1864)水戸天狗党の党首、武田耕雲斎が率いる一千人は上洛して

 天朝に奏文するため水戸を出発しましたが、先々で幕府軍によって進路を阻まれました。

 紆余曲折の末、中山道から転進して美濃の根尾谷を進み、蝿帽子峠を越え、

 笹又、大野、池田を経て、この峠から今庄に入り、木の芽峠を越えた新保において軍門に降りました。


大坂(峠)へ向かう途中、杣木俣方面を見下ろす大坂(峠)から池田町側を望む

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1 宅良坂
(南条郡南今庄町・今立郡池田町)

 南条郡南今庄町芋ヶ平と今立郡池田町木谷の間の2.5kmの坂道で、峠は標高約545mありました。坂の名は宅良谷へ越えることから付いたのでしょうか。

 田倉川上流の芋ヶ平川の谷から、足羽川の上流にある支流割谷川の谷へと越えます。

 分水嶺は峠付近で標高約545mあり、芋ヶ平側は傾斜の急な谷道、木谷側は細長い尾根上の傾斜の緩やかな道でした。

 南越前町瀬戸と池田町土合皿尾を結ぶ道でしたが、芋ヶ平も木谷も、すでに廃村となった現在、通る人もなく廃道になってしまいました。

 宅良坂は、昔、木地師達が芋ヶ平から入植して割谷村を開いた時に開削された峠だとか、

 府中から宅良谷を経て、この坂を越えて池田の河内から冠越を上り、美濃の徳山から鎌倉に向かった鎌倉街道だったと見る人もいて開削されたのは古いようです。

 また鞍谷から魚見坂を越えた冠越のコースが鎌倉街道だとする人もいるようですが、いずれにしても両者は峠下の割谷追分で合流しました。



2 峠下集落

(1) 芋ヶ平
(南越前町芋ヶ平)

 今は廃村となった芋ヶ平の集落は、15世紀末の人々が山の峰を伝い、

 峠を越えて木地材を追って移動し、峰から峰へと渡り歩いた木地師が移住し、定着した所だといわれます。

 「ろくろ」という特殊な工具を使って椀や盆など円形の木地を作ったり、また、杓子をこしらえる人のことを木地師とか轆轤師といいました。

 芋ヶ平は奥地にありますが、比較的平地に恵まれた定住の場所であり、芋類を多く作って常食としたところから、芋ヶ平という地名が生れたといわれます。

 また、芋ヶ平は瀬戸の枝村でしたが、明治28年〜29年(1895〜1896)の大洪水のため山林の大部分を県が保安林に指定したため、

 生活維持のため明治35年(1902)頃、28戸中13戸が春江町近辺へ移住しました。昭和55年(1980)には無住地となり、廃村となりました。



(2) 木谷(池田町木谷)

 足羽川の支流、割谷川の最上流域に位置した集落でした。昔、人が住んでいないはずの割谷川上流から椀の破片が流れてきました。

 これに驚いた下流域、土合村の人達が、進入者に奥地を切り開かれてしまうのを恐れ、

 村の次男、三男を説き伏せて割谷村の上流に開村したのが当地の起こりと伝えられます。

 そのため木谷村と割谷村は、かつては仲が悪く隣接しながら通婚もしなかったといいます。

 慶長3年(1598)の太閤検地帳には「土合木谷村」として村高61石余(うち11石余が木谷村)とあります。

 江戸期に越前国今立郡の土合木谷村から分村し、鯖江藩領として村高15石余とあり、

 享保6年(1721)の池田郷中村々明細帳によれば家数12、人数73、牛2とあります。

 耕地が2町足らずでしたので炭焼きを主とし、漆掻、養蚕、とりもち作りなどの副業に精を出しました。

 しかし、明治以後、徐々に過疎化が進み、昭和39年(1964)から無住地となりました。

3 宅良坂の歴史

 残念ながら、この坂道に関する記事が見当たりません。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典  角川書店
峠のルーツ     上杉喜寿著





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