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大 内 峠

大内隧道大内峠


1 大内峠
(福井県坂井郡丸岡町・石川県加賀市)

 大地峠、竹田峠ともいい加越山地の北部に位置し、坂井郡丸岡町山竹田と加賀市山中温泉大内町とを結ぶ標高約330mの峠です。

 峠名は峠下にある大内・竹田の集落名により、大地は大内の古名です。

竹田川と大聖寺川の支流、大内谷川の分水嶺になっています。

 これまで国道364号が標高約295m付近を大内隧道(昭和36年完成、全長108m)で抜けていましたが、

平成16年4月、新しく丸岡・山中温泉トンネル(全長1,056m)が開通しました。

 さらに丸岡町山竹田から山中温泉我谷町まで約5kmの区間、道路幅員が6.5mに拡幅整備されて、一段と交通が便利になりました。

 この峠は昔から利用され、江戸期は丸岡城下から豊原に出て榎峠を越え、また、鳴鹿から近庄峠を越え、

 この峠を通って加賀山中へ通じていました。このため、峠下に口留番所が置かれました。

 戦国期には加賀一向一揆の越前侵入経路の一つで、山竹田には落武者の伝承が残っています。

 また山中の木地師が足羽川上流の池田の谷へ稼動するのに利用したといわれます。



2 峠下集落

(1) 山竹田
(福井県坂井郡丸岡町山竹田) 

 竹田川の上流域に位置し、戦国期の古文書に初見される集落ですが、江戸期は越前国坂井郡に属し福井藩領でした。

 村高は「正保郷帳」で598石余(田147石余、畑451石余)で、枝村として曽谷、中西、岡、島崎があり、竹田炭の生産が盛んで松岡の鍛冶屋で使われたといわれます。

 明治初年の「足羽県地理誌」によれば戸数82、人口415(男200女215)、馬5、田7町7反余、畑11町7反余、物産は炭300俵とあります。

 明治22年(1889)竹田村の大字、昭和30年(1955)からは丸岡町の大字となりました。

 明治中頃まで狭い山道しかありませんでしたが、明治30年(1897)から5年かけて竹田新道が開かれました。


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(2) 大内(石川県加賀市山中温泉大内町)

 大聖寺川の支流、大内谷川の上流域に位置し、周囲を富士写ヶ岳、火灯山といった

900m級の山岳地帯の麓にある集落で、その南端に大内峠があります。

 地名の由来は、長享の頃(1487〜1488)奉公衆大内左京亮長郷が、当地に住んでいたことによるといわれます。

 江戸期は加賀江沼郡に属し大聖寺藩領で、元禄14年(1701)の村高47石余、家数14、人口70とあります。

 当地は越前領へ抜ける要地であったため、大聖寺藩の大内番所が置かれ、

村人は明治維新までは薪などを越前丸岡へ出荷していました。このように越前と繋がりの強い地域でした。

 明治10年(1877)頃から木羽(こば)、明治15年(1882)頃から炭焼きを主業とするようになり、

明治22年(1889)石川県西谷村の大字となり、この頃の戸数23、人口149とあります。

 明治30年(1897)頃から木地挽き業が始まり、山中漆器の塗師業も伝わりました。

 昭和前期には村の8割が木地挽きを生業としました。

 昭和30年(1955)山中町の町名となり、昭和36年(1961)大内隧道が開通し、

昔の大内峠越えはなくなりました。しかし、その後の人口流出は激しく、昭和50年(1975)には5戸、21人に減少しました。


大内トンネル下(丸岡町側道路状況)大内トンネル下(山中町側道路状況)


3 峠の歴史


(1) 中世、朝倉氏の軍用道路として整備


 中世、朝倉氏は加賀から南下する加賀一向一揆に悩まされました。越前へ侵入してくる度に出兵し撃退しましたが、

 越前一向一揆が彼等に加勢し朝倉氏の動向を連絡するため、大きな打撃を与えることができませんでした。

 侵入してくる一向一揆の後背に回り袋のネズミにするか、加賀へ後退できないよう

退路を断つ戦法に出ない限り、一揆は監視の目が緩むたびに侵入を繰り返しました。

 そこで朝倉氏は一乗谷→宇坂大谷→市野々坂→京善→鳴鹿→近庄峠→

竹田→大内峠→山中というコースを軍用道路として整備しました。

 加賀一向一揆が牛ノ谷、細呂木両峠を越え九頭竜川畔へ進出すると、

朝倉軍は、このコースで山中方面から退路を遮断する戦法を採ったこともあったようです。

 しかし、一揆侵入の報を受けてからでは機を失し戦果を上げることができませんでした。

 明応3年(1494)加賀一向一揆が越前侵入を開始して以来、天正3年(1575)織田信長によって

彼等が全滅されるまで、国境の諸峠は両軍将兵が死闘を展開したところでした。



(2) 近世、両峠下に口留番所を設置

 この峠道は古くから加賀・越前を結ぶ要路として利用され、山中温泉入湯者も番所で厳しく取締りを受けました。

 山竹田の口留番所に関し「越藩史料」には『山竹田にて加州境に在り、大内村に出る。

 丸岡より大内まで三里ばかり、口留御番所を置く。番人金津郡代組より足軽詰める。

 右同所より五里十一町二十五間。御城代金津支配』とあります。

 この福井藩御番所は峠を下って山竹田の竹田川畔にあったようで、これに対し加賀大聖寺藩も峠を越えた大内村内に御番所を置き足軽を配置していました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前・若狭山々
のルーツ      上杉喜寿著



  

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