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折立峠・赤谷峠

折立の称名寺山門折立峠付近


1 折立峠
(福井県鯖江市・足羽郡美山町)

 鯖江市上河内と足羽郡美山町折立との間を結ぶ標高約460mの峠です。

 河和田川の上流と足羽川の中流を結ぶ道が越えていましたが、現在は廃道になっています。

 上河内からの坂は急坂でしたが、折立からは比較的緩やかで峠の東方の山地には平坦面が見られます。    峠の位置はこちらです。

 現在、この峠の南方約800m付近に上河内と折立を結ぶ林道の新しい峠ができました。

 この道は折立から峠までは舗装されていますが、峠から上河内側は未舗装で自動車の通行は困難です。

 峠自体は地味ですが林道の雰囲気は良く、この付近は野生動物の多い自然の宝庫となっています。

 しかし、2004.7の福井豪雨により甚大な被害を被り、復旧の見通しが立っていません。



2 峠下集落

(1) 折立
(足羽郡美山町折立)

 足羽川の上流域に位置し、支流赤谷川、乙谷川が集落の南西の山地から流れ、地内で本流と合流しています。

 地名の由来は、山の形が中国の折立山に似ることから、或いは乙谷坂の降口
(おりくち)の意が、おりたち、おりたてに転じたといわれます。

 折立村は越前国大野郡のうちにあって、平安後期の長承2年(1132)の古文書に村名が初見されます。

 平安末期には河原郷に、その後安楽寺院領紙山保に属し、室町期には折立郷とも記されています。

 室町期の永享12年(1440)の古文書には紙山保5か村の一つとして折立郷が記されており、

 現地祭礼のための免除分として太子堂灯明田、薬師堂油田などと記されています。

 この寺院のうち、薬師堂は小字丸山にあった薬師堂を、太子堂は、この前後に当地に創設された称名寺の前身を指しているのではないかといわれます。

 戦国期になると、この称名寺の所在を示す語として折立がしばしば見えます。

 江戸期、折立村は大野郡の内にあって、枝村として折立上村、東赤谷、西赤谷とあります。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から大野藩領となりました。

 村高は「正保郷帳」によれば173石うち田方90石、畑方83石とあり、文政6年(1823)の家数人別仕出帳によれば家数60、人数221とあります。

 神社は白山神社、寺院は真宗高田派称名寺、西生寺、誠諦寺、浄土真宗本願寺派正行寺がありました。

 称名寺は、高田専修寺3世顕智の北陸教化の頃に建立されたいわれ、開基は佐々木四郎高綱(一説には佐々木三郎盛綱とする。)といわれます。

 古くは北坊と南坊に分かれ、南坊は移転して黒目称名寺(現三国町)となりました。

 南坊の下寺、正行寺は延宝2年(1674)寺号を得ましたが、称名寺との確執が絶えず元禄13年(1700)廃寺となりました。

 正徳3年(1713)西河原村に願重坊として再興され、その後黒目称名寺の掛所として復興しました。

 明治13年(1880)枝村の赤谷村を分村、明治14年福井県に所属、戸数56、人口303(男152女209)、馬2・牛10、田畑10町7反余、明治22年(1889)下味見村の大字となりました。

 昭和30年(1955)美山村、昭和39年(1964)美山町の大字となりました。明治29年(1896)の足羽川の水害により7戸流失、正行寺は大破し西天田へ移転しました。


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(2) 上河内(鯖江市)

 河和田谷の東最奥部、河和田川の最上流域に位置する集落です。江戸期には河内村とあり、越前国今立郡のうちで、

 はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)大坂城代土岐頼殷領、正徳2年(1712)から幕府領となりました。

 村高は「正保郷帳」で416石余、うち田方154石余、畑方262石余でした。江戸前期、枝郷の沢村が分村しました。

 元文3年(1738)の村々惣寄帳では村高184石余、家数21、人数82とあります。明治初年、上河内村となりました。

 明治22年(1889)河和田村の大字となり、昭和32年(1957)鯖江市上河内町となりました。



3 折立峠の歴史

(1) 称名寺
(足羽郡美山町折立) 

 峠下の折立に、称名寺という立派なお寺があります。この辺、現在は足羽郡美山町に入っておりますが、

 かつては大野郡に属しており、平泉寺に次ぐ巨刹といわれた寺でした。

 称名寺は浄土真宗高田派、山号は折立山、本尊は阿弥陀如来であり、佐々木三郎盛綱(一説に佐々木四郎高綱)を開基とし、

 坂北郡木部庄、吉田郡岡保庄西谷を経て、折立に一宇を建立したといわれます。

 昔、この辺りに天台宗の寺があったものと考えられ、早くから開けていた所と推測されます。

 おそらく高田派専修寺3世顕智の北陸教化の頃の13世紀末から14世紀初頭にかけて太子堂を中心に創建されたと思われます。

 寛正5年(1464)頃、高田専修寺10世真恵が来越した際の礼状に「折立北坊称名寺御坊」とあり、

 その後の伊勢専修寺所蔵文書にも「北称名寺」「南称名寺」と、しばしば見えるので早くから北坊と南坊に分立していたようです。

 北坊が当寺で、南坊は室町末期に移転して、黒目の称名寺(坂井郡三国町)となりました。

 当寺には戦国期の文書十数通が伝来し、高田派と対立した一向一揆に対して

 朝倉氏や柴田氏が、どのように対処したのか窺える貴重な史料が残されているそうです。



(2) 上河内鉱泉(鯖江市上河内)

 近世、河和田村側の上河内には鉱泉が湧出して、農閑期になるとこの辺りのお百姓さんは疲労回復に効くといって峠を越えて湯治に行きました。

 昔は湯銭だけを支払い、一部屋借りて自炊するのが普通であり、部屋代、炊事用の薪、炭代として「木賃」を支払うのが慣習でした。

 この鉱泉の奥には「落武者の隠れ穴」と呼ばれる穴があるそうで、「赤谷」といい、

 この穴といい、昔、帰る場所を失った人達には、この辺りは格好の隠れ場所になったようです。


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1 赤谷峠
(福井県鯖江市・足羽郡美山町)

 鯖江市尾花と足羽郡美山町赤谷とを結ぶ標高約450mの峠で、近くにある折立峠とほぼ平行して走る峠道でした。

 しかし、今は完全に風化して道の判別も困難な状態ですが、峠の近くを林道大野・池田線が通っています。    峠の位置はこちらです。



2 峠下集落

(1) 赤谷
(足羽郡美山町)

 足羽川の支流、赤谷川上流域の山間部に位置した集落です。赤谷村由緒書によれば、

 赤谷は平惟盛が隠遁し、その子孫によって形成されたとし、地名は平氏の赤旗にちなむといいます。

 江戸期は大野郡、折立村の枝村として存在し、明治13年(1880)折立村から分村して成立しました。「名蹟考」によれば東赤谷と西赤谷がありました。

 はじめ下味見村、昭和30年(1955)美山村、昭和39年(1964)から美山町の大字となりました。

 明治24年(1891)の戸数37、人口190(男96女94)とあり、明治23年(1890)には自然砒・輝安鉱採掘のため赤谷鉱山が開鉱しましたが、現在は廃鉱になっています。



(2) 尾花(鯖江市)

 河和田谷の東部、殿上山(標高683m)の西南麓に位置する集落です。

 地名は村を囲む山々の稜線、尾根が暁の空に輝く様が、美しい花弁に似ていることに因むといわれます。

 東部の沢との境界に往古「三社の森」と呼ばれる、鬱蒼とした森があり、ここに式内社刀那神社がありました。

 殿上山は戦国期に白山権現を祀った禅定神社があり、朝倉家の祈願所でしたが、朝倉氏の滅亡とともに破壊されました。

 しかし、今も毎年2月5日「殿上まいり」の神事が続けられています。

 江戸期には越前国今立郡のうちで、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)から幕府領となりました。

 村高は「正保郷帳」では312石余(うち田方171石余、畑方141石余)とあり、元文3年(1738)の村々惣寄帳によると家数46、人数159とあります。

 神社は式内社刀那神社、寺院は応永25年(1418)創建と伝えられる曹洞宗長禅寺と

 永禄12年(1569)天台宗万寂寺が転宗して浄土真宗誠照寺派となった法隆寺があります。

 明治22年(1889)河和田村の大字、昭和32年(1957)鯖江市尾花町となりました。


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3 赤谷峠の歴史

(1) 平家落人伝説の赤谷


 寿永2年(1183)、木曽義仲が平家打倒の兵を挙げて、上洛のため北陸道を進撃した時、

 平清盛は、惟盛を討手の総大将として差し向け、今庄燧が城の合戦で大勝しました。

 逃走する義仲軍を追った惟盛は、越中境の倶利伽羅峠で義仲軍に大敗して、逆に追われる身となって四散しました。

 この戦に出羽国(山形県)の赤谷から平家方の一員として出征した赤谷某は、

 この合戦以来姿を消したと伝えられ、この者がこの辺りに逃げたとの説があります。

 峠下の赤谷の村落には、一大岩壁に「平家堂」と呼ぶ石窟の社があり、惟盛公を安置すると伝えています。



(2) 池田町東角間の赤谷家

 池田町東角間に「赤谷家」と呼ばれる旧家があり、味見の赤谷から移ったといわれ、

 平家のシンボル「あげ羽の蝶」を染め抜いた麻の布地と系図、尺余の阿弥陀金仏を家宝として伝えています。

 昔は赤谷の平神社祭礼には村人が迎えにきたので、出向いて司祭をしたそうです。



(3) 殿上山と赤谷

 
赤谷に隠れた平家落人一族は、この村の奥、殿上山(標高683m)に見張所をつくって

 周囲の警戒に当たり、旧下池田村(池田町)蒲沢に隠れた一族と絶えず狼煙で連絡を取り合ったといいます。

 殿上山という名は、ここに隠れた人達が時勢が変わってから、自分達の「出自」を誇って命名したと言われます。



(4)「塩の道」「漆掻き道」の赤谷峠

 赤谷集落は、背後の山に向かって棚田が階段状に並んでいます。「赤谷峠」は、昔、塩の補給路として利用されたものと考えます。

 また、この峠は「塩の道」だけではなく、中世以降「漆掻き」が往復した峠でもあったことでしょう。

 河和田からこの峠を越え、上味見村から大野に出るには最短のコースで、

 田植えを済ませた人達は、三々五々、仲間達と一緒に出て、秋になると漆桶を担いで再びこの峠を越えたことでしょう。

 漆掻き一人当たりの漆樹は50〜60本が普通であり、漆樹の所有者は、漆賃をいくらと定めて掻を掻かせたといわれます。

 漆掻きは、樹幹に傷を入れ、ここから滲み出る漆を皿に受け、皿に溜まった漆を桶を持って集めて歩くという仕事を繰り返しました。

 河和田漆器の需要を満たすため、かなり多くの人達が「漆掻き」になって、

 地元越前は勿論、北は福島、南は岡山、愛媛あたりまで出かけたといいます。

 「漆」は冷温の地に繁茂するもので、緯度、標高の高い土地でなければならず、東北や信州が主産地だったということです。


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主な参考文献

角川地名大辞典18福井県   角川書店
越前・若狭の峠のルーツ  上杉喜寿著




  

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