3峠下の集落
(1)下笹又村(大野市下笹又)
真名川峡谷の左岸に位置した20数戸の村でした。永享12年(1440)には「上佐々俣」が見え、室町期にはすでに上下2村に分かれていたものと推定されます。
南中山西谷9村のうちに入り、江戸初期には福井藩、寛永元年(1624)から大野藩領になりました。
古くから笹又峠を越えて、大野盆地南端の木本村と結ばれ、真名川上流は秋生村を経て美濃へ通じる交通の要地として重視されました。
明治22年(1889)西谷村の大字になり、昭和40年(1965)9月の集中豪雨災害で全世帯離村し無住地となり、その後、真名川ダムが建設され湖底に消えました。
(2)木本村(大野市木本)
大野盆地の南端、清滝川の中流域に位置した村です。平安末期には木本郷として見え、その後、木本領家村と木本地頭村に分かれました。
明治初年、両村が合併して木本村となりましたが、明治22年(1889)上庄村の大字となり、昭和29年(1954)大野市の大字となりました。
当村は大野城下から南方1里半(約6km)に位置し、中世から近世にかけて西ノ谷、穴馬谷を経て美濃(岐阜県)へ通じる道筋に当たりました。
このため江戸初期、越前国を領した結城秀康は搦手道としての戦略的重要性を重視して、
越美国境にあった仏峠・油坂峠・檜峠・蝿帽子峠等に関門を設けるとともに、その総関門として
木本に加藤四郎兵衛康寛宗月を5,000石で配置し、さらに寛永3年(1626)7月、直系の松平直良を1万石で配置し秘密性の高い裏街道(搦手道)を監視させました。
しかし、徳川幕府が安定すると木本の戦略的重要性が薄らぎ、経済路として利用されるようになりました。
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