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笹 又 峠

大野市木ノ本から笹又峠方面を望む旧下笹又村中腹から笹又峠を望む


1笹又峠
(福井県大野市)

 笹又越ともいい、大野市木本と同市下笹又(旧西谷村)を結んだ標高792mの峠です。峠名は笹又へ越えるために付いたのでしょうか。

           
峠の地図はこちらです。

 往時の下笹又村は、笹生川が真名川ダムに流れ込むあたりにありました。今は、上・下笹又村とも湖底に消え、

 かっての笹又峠の頂上にあったといわれる二体の地蔵が坂ノ谷橋の脇にあるコンクリート製の小さな祠に安置されてあります。



2笹又峠の歴史

 天正3年(1575)織田信長の部将、金森長近らは一向一揆討伐のため、この峠を越え大野に攻め入りました。

 また天明7年(1787)の南中山西ノ谷(大野市)の飢饉には、峠越えで御救米が運ばれるなど荒島岳下の峡谷を避けて真名川の谷へ入る重要な通路でした。

 幕末の元治元年(1864)水戸天狗党の一行が西谷へ入った時、大野藩は笹又峠に大砲を据え、当村はじめ西谷の各村々を焼き払いました。

 天狗党は焼け跡を踏破して峠を越え、木本村に宿泊しました。

 昭和40年(1965)9月の集中豪雨による災害時、自衛隊がこの峠を越えて大野郡西谷村(大野市)へ救援に入るなど

 笹又峠の価値は失われていませんでしたが、真名川沿いに国道157号が整備された現在、人の往来はほとんどありません。 


大野市下笹又地区図大野市木本集落遠景

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3峠下の集落


 
(1)下笹又村(大野市下笹又)

 真名川峡谷の左岸に位置した20数戸の村でした。永享12年(1440)には「上佐々俣」が見え、室町期にはすでに上下2村に分かれていたものと推定されます。

 南中山西谷9村のうちに入り、江戸初期には福井藩、寛永元年(1624)から大野藩領になりました。

 古くから笹又峠を越えて、大野盆地南端の木本村と結ばれ、真名川上流は秋生村を経て美濃へ通じる交通の要地として重視されました。

 明治22年(1889)西谷村の大字になり、昭和40年(1965)9月の集中豪雨災害で全世帯離村し無住地となり、その後、真名川ダムが建設され湖底に消えました。



 (2)木本村(大野市木本)

 大野盆地の南端、清滝川の中流域に位置した村です。平安末期には木本郷として見え、その後、木本領家村と木本地頭村に分かれました。

 明治初年、両村が合併して木本村となりましたが、明治22年(1889)上庄村の大字となり、昭和29年(1954)大野市の大字となりました。

 当村は大野城下から南方1里半(約6km)に位置し、中世から近世にかけて西ノ谷、穴馬谷を経て美濃(岐阜県)へ通じる道筋に当たりました。

 このため江戸初期、越前国を領した結城秀康は搦手道としての戦略的重要性を重視して、

 越美国境にあった仏峠・油坂峠・檜峠・蝿帽子峠等に関門を設けるとともに、その総関門として

 木本に加藤四郎兵衛康寛宗月を5,000石で配置し、さらに寛永3年(1626)7月、直系の松平直良を1万石で配置し秘密性の高い裏街道(搦手道)を監視させました。

 しかし、徳川幕府が安定すると木本の戦略的重要性が薄らぎ、経済路として利用されるようになりました。


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主な参考文献

角川地名大辞典 18福井県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ  上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道  吉川弘文館





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