3 清水谷峠の歴史
(1) 清水谷峠の合戦
この峠は清水坂ともいい、古くから人々に利用されてきた坂峠ですが、史料に出てくるのは朝倉期からです。
文明3年(1471)9月11日、この峠付近の合戦で栂野和泉守が戦死したとあることです。
中世、越前守護職斯波家の家臣団として甲斐常治、池田勘解由左衛門、朝倉孝景などの諸将がおりました。
この三家は、互いに勢力の拡充を図り、他を押さえて斯波家の守護職の代理、守護代を狙っていました。
この時代、全国的に下剋上が台頭した頃で、お互いに機会を窺っていたわけです。
その後、朝倉家は、甲斐を加賀へ追い、池田を叩いて守護代の座を占めました。
次いで斯波氏に代って越前守護職となり、一乗谷に進出して百年の栄華の基を築き上げました。
(2) 越前守護斯波家の家臣、池田勘解由左衛門
室町時代、今立郡池田庄(池田町)は、越前守護斯波家の家臣で府中(武生市)に在駐していた小守護代の一人、池田勘解由左衛門の本拠地でした。
文明3年(1471)8月新庄・鯖江合戦に大勝利した朝倉方は、同年9月11日、池田庄清水谷において府中の甲斐常治と結ぶ池田氏と会戦して、これを牽制しました。
朝倉氏は池田氏を破って以来、この峠下の野尻村付近に見張台を置き、池田氏の動静を監視しました。
現在、武生市内に「窓安寺」という古刹がありますが、この寺は野尻村から移建した寺と伝えられ、朝倉家の菩提寺でした。
境内には当時のものという石仏が安置されており、これらの石仏は清水谷合戦で戦死した人達を慰霊するために建立されたと伝えられています。
文明4年(1472)8月、朝倉氏は府中総攻撃を開始してこれを陥落させ、一帯を平定しました。
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