3 峠の歴史
(1) 新道野越の開削
古来からの塩津道(深坂越)が険路であったため、その東方を迂回する新道野越えが開かれ、以後、この道が主要道になりました。
この道は安土・桃山期の天正17年(1589)に開削されたとありますが、実際は室町末期の弘治年間(1555〜1558)までに開かれていたようです。
近世、年貢米をはじめ大量の物資が輸送されるようになると急勾配の深坂越は敬遠されるようになり、
半里(約2km)ほど遠回りになりますが傾斜が緩く雪も少ない新道野越が開削され、七里半越(海津道)と並ぶ近江への主要道になっていきました。
これに関し、天正8年(1580)敦賀代官武藤安則が上り荷物の継場を定めた時、
新道野もその一つに加えられ、天正17年(1589)に道路改修が行われ大阪築城の荷物輸送に利用したとあります。
(2) 新道野越の改修と変遷
江戸期、新道野越は何度も改修されたようで、元禄2年、同4年(1689〜1690)には合計132日、延べ人夫1万9,508人を使って改修工事が行われています。
こうして新道野越は、敦賀から近江海津へ向かう馬借道に指定された七里半越(西近江路)に準じた道として扱われました。
深坂越も安政年間(1854〜1859)道路改修が行われ一時賑わいましたが、
急傾斜は解消されることなく、その後も改修されないまま廃道になっていきます。
このように急傾斜の深坂越は改修されないまま、明治11年(1878)敦賀陸送会社の寄付金で
新道野越は荷車道に改修されて、貨客の往来がますます増加していきました。
それまで新道野越と呼ばれきた塩津道は、明治11年(1878)の道路改修以後、正式に塩津道と呼ばれるようになり、
国道の指定を受け、大正9年(1920)国道12号、さらに現在は国道8号と改称されました。
国道8号は昭和28年(1953)道路幅も拡幅改修され、北陸と近畿・東海を結ぶ幹線道路となりました。
現在、JR北陸本線が廃道になった深坂峠の下をトンネルで通過し、新疋田駅から近江塩津駅間を結んでいます。
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