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新 道 野 越


敦賀市新道野の国道8号江越国境、新道野の孫兵衛茶屋


1 新道野越
(福井県敦賀市新道野・滋賀県伊香郡西浅井町沓掛)

 江越国境(滋賀・福井県境)にある野坂山地の鞍部(標高240m)・新道野を越えて新道村(敦賀市)と

 沓掛村(西浅井町)を結んだ峠道で、ここを塩津道(新道野越・現国道8号)が通っていました。

 敦賀湊と琵琶湖水運の拠点塩津浜を結ぶ塩津道は、古代に開かれて以来、

 追分村(敦賀市)と沓掛村(西浅井町)を結ぶ深坂越が経路でしたが、急坂の続く

 深坂峠(標高370m)の難所を避けるため、近世初期、この峠の東約1kmの地点に新道野越が開かれました。

 深坂越に比べ距離は約2km遠くなりますが、峠は約130m低く、以後、深坂越に代わり塩津道の本道になりました。

 現在、この経路を国道8号が通り、北陸と東海・近畿を結ぶ幹線道路になっています。



2 峠下集落

(1) 新道村・新道野
(福井県敦賀市新道)

 野坂山地の東部、狭小な谷底盆地を通る塩津道に沿って集落がありました。

 地名の由来は「敦賀誌」に「この村は深坂より追分へ出し官道やみて、今の新道野街道開け始めん頃、

 奥麻生より出たるべし。いづかたにても、新たに出でて村居せしを何の新道という」とあります。

 江戸期、新道村として越前国敦賀郡に属し、はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から

 小浜藩領となり、村高は「正保郷帳」で田方53石余、畑方5石余の計59石余でした。

 当村は新道野越の要衝として山間の宿駅に指定され、新道村より約1km南の国境近く新道野に

 寛永元年(1624)小浜藩は女留番所、高札場、米蔵を設置し、藩米の継ぎ立て

 基地とし、岩熊
(やのくま)村(伊香郡西浅井町)の西村孫兵衛に藩米の運送をさせました。

 俵物をはじめとする上り荷物は新道野で継ぎ立て、特に冬季の上り荷物である

 藩米の多くが当地を通過し、問屋西村家が小浜藩の米を一手に引き受け塩津へ輸送しました。

 寛永19年(1642)問屋兼茶屋の西村孫兵衛が藩米の保管料である庭米(扱料)を辞退し、代りに三人扶持を給せられました。

 寛文年間(1661〜1673)以来、新道野から塩津までの賃銭(運賃)は、本馬127文、軽尻82文、人足61文と定められていました。

 当時、敦賀から塩津へ運ばれた主な物資は米と鰊、鱈、昆布など海産物のほか布、笠、木地などでした。

 安政5年(1858)の記録によれば塩津湊の問屋6軒が毎日、新道野に詰めて塩津谷9ヵ村の人馬役を指揮し、荷物運送のすべてを差配したとあります。


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古塩津道〜深坂越〜古塩津道〜深坂越〜


(2) 沓掛(滋賀県伊香郡西浅井町沓掛)

 江越国境(滋賀・福井県境)の深坂峠を源に南東流する大川上流の山峡に位置した集落です。

 この大川に沿って塩津道が通り、北部で大浦谷に沿ってきた大浦道を合わせたあと分岐し、

 深坂峠を越えて追分村(敦賀市追分)へ、新道野峠(沓掛峠)を越えて新道野(敦賀市新道野)に至る二つの塩津道に分かれました。

 深坂越えは古代からの道で、道沿いに今も石畳や問屋跡が残っており、新道野越えは近世になって開削された新しい道です。

 沓掛村の地名は、草鞋
(わらじ)を掛けて旅の無事を祈ったことに由来するといわれます。

 地内にある深坂には平清盛の運河開削伝説のある深坂地蔵があり、古代の愛発関の所在地を同地辺に比定する説もあります。

 江戸期、沓掛村は近江国浅井郡に属し、寛永11年(1634)の村高254石余で山城淀藩領、

 その後、甲斐甲府藩領を経て、天保郷帳の村高369石余、家数104、人数530、牛3、馬46とあり、大和郡山藩領で幕末に至ります。


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古塩津道〜深坂越〜深坂地蔵堂〜深坂越〜


3 峠の歴史


(1) 新道野越の開削


 古来からの塩津道(深坂越)が険路であったため、その東方を迂回する新道野越えが開かれ、以後、この道が主要道になりました。

 この道は安土・桃山期の天正17年(1589)に開削されたとありますが、実際は室町末期の弘治年間(1555〜1558)までに開かれていたようです。

 近世、年貢米をはじめ大量の物資が輸送されるようになると急勾配の深坂越は敬遠されるようになり、

 半里(約2km)ほど遠回りになりますが傾斜が緩く雪も少ない新道野越が開削され、七里半越(海津道)と並ぶ近江への主要道になっていきました。

 これに関し、天正8年(1580)敦賀代官武藤安則が上り荷物の継場を定めた時、

 新道野もその一つに加えられ、天正17年(1589)に道路改修が行われ大阪築城の荷物輸送に利用したとあります。



(2) 新道野越の改修と変遷

 江戸期、新道野越は何度も改修されたようで、元禄2年、同4年(1689〜1690)には合計132日、延べ人夫1万9,508人を使って改修工事が行われています。

 こうして新道野越は、敦賀から近江海津へ向かう馬借道に指定された七里半越(西近江路)に準じた道として扱われました。

 深坂越も安政年間(1854〜1859)道路改修が行われ一時賑わいましたが、

  急傾斜は解消されることなく、その後も改修されないまま廃道になっていきます。

 このように急傾斜の深坂越は改修されないまま、明治11年(1878)敦賀陸送会社の寄付金で

 新道野越は荷車道に改修されて、貨客の往来がますます増加していきました。

 それまで新道野越と呼ばれきた塩津道は、明治11年(1878)の道路改修以後、正式に塩津道と呼ばれるようになり、

 国道の指定を受け、大正9年(1920)国道12号、さらに現在は国道8号と改称されました。

 国道8号は昭和28年(1953)道路幅も拡幅改修され、北陸と近畿・東海を結ぶ幹線道路となりました。

 現在、JR北陸本線が廃道になった深坂峠の下をトンネルで通過し、新疋田駅から近江塩津駅間を結んでいます。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県   角川書店
日本歴史地名大系 滋賀県     平凡社
越前・若狭峠のルーツ     上杉喜寿著
近江・若狭と湖の街道     吉川弘文館
福井県史通史編3 近世一     福井県






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