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七里半越

滋賀・福井県境付近の国道161号滋賀・福井県境付近の国道161号


1 七里半越
(福井県敦賀市山中・滋賀県高島市野口)


 古来、敦賀は北国と畿内を結ぶ重要な地でしたので、近江から敦賀あるいは府中(越前市)へ通じる道が開けていました。

 その主道が古代北陸道(愛発越・山中越・海津道・西近江路)であり、穴多駅(大津市)から各駅を経て鞆結駅(高島市マキノ町石庭)

 あるいは海津(高島市マキノ町)に至り、山中峠(七里半越)を越え越前の敦賀や府中へ向かっていました。

 この古代北陸道のうち敦賀から海津までの距離が七里半だったことから、敦賀・海津間を七里半街道(七里半越)と呼びました。

 また、近江と越前の国境にあった標高約400mの峠道が七里半越(山中峠)と呼ばれました。

 七里半越というのは江越国境にあった坂(峠)名と海津・敦賀間の街道名の両者に使われていたようです。

 近世には北国海道、西近江路、馬足道とも呼ばれ、敦賀町奉行から村々に馬足数に応じて課せられた馬足役によって街道が維持されました。

 寛文3年(1663)の敦賀郡内の馬数は1,295匹、そのうち馬借馬372匹、牛338匹という記録が残っています。

 寛文12年(1672)河村瑞賢による西廻航路の確立によって諸物資の輸送が減少し、

 馬借は大きな打撃を受けますが、北前船の敦賀寄港により辛うじて街道輸送が維持されました。

 しかし、安政年間(1854〜1859)の深坂越え、明治11年(1878)の新道野越えの塩津街道の改良整備で

 大きなダメージを受け、さらに国道8号、国鉄北陸本線からも外れて急激に衰退しました。

 現在は海津・疋田間に国道161号、疋田・敦賀間に国道8号が通じて近畿・北陸を結ぶ自動車交通の中心になっています。



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2 峠下集落


(1) 山中
(敦賀市山中)

 野坂山地東部の山間盆地、五位川上流域に位置し、平安末期から山中という地名が見えます。

 ここは越前国敦賀郡(敦賀市)の最南端に位置し、古代北陸道(西近江路・七里半越・海津道)が通っていました。

 永正15年(1518)の古文書に「山中のせきしょ」という記録があり、越前守護朝倉氏が江越国境にあった

 山中に関所を設けていましたし、江戸期には宿駅となって一里塚、口留番所、高札場が設置されました。

 はじめ福井藩領でしたが、寛永元年(1624)から小浜藩領になり、享保12年(1727)の家数46、人数196人とあります。

 盛時には人馬、荷物の往来で繁栄し、享保7年(1722)頃には10人の問屋がいる宿場となりました。

 しかし、後の西廻り航路及び新道野越えに荷物を奪われ、徐々に衰退していきました。

 明治初期、問屋は4軒になり、愛発村を経て昭和30年(1955)からは敦賀市の大字となりました。

 昭和46年(1971)には家数1戸となり、その後、酪農家2戸が加わり3戸となって現在に至ります。



巨桜「清水の桜」(滋賀県高島市マキノ町海津)剣熊関之跡(滋賀県高島市マキノ町野口)


(2) 野口(滋賀県高島市マキノ町野口)

 近江高島郡の北部山間部に位置し、七里半越に沿って北は越前国境、南は小荒路に接する古代北陸道が南北に貫通する山間狭隘な谷間に点在した集落です。

 鎌倉期、嶮熊野荘
(けんくまの)という荘園ができ、この頃、野口集落もできたのであろうと思います。

 江戸期、慶長5年(1600)野口村は幕府領になり、いつ頃か分かりませんが枝村に路原村
(ちはら)、国境村(くにざかい)ができました。

 本村の野口に女留番所で知られる剣熊関(野口関・天隈関・野口番所とも呼ばれた)ができ、

 街道の北と南に関門を設け、その西に武具庫、見張所、東に馬小屋、役宅、長屋が置かれました。

 関守は代々三上家が勤め、番人は三上喜兵衛で役米6石を頂戴しました。

 このように関所があるため当村は国役半役免除となり、寛文元年(1661)以降は、残りの半役も免除となりました。

 享保9年(1724)から大和郡山藩となりましたが、この頃、当村の家数は99、人数383、馬33とあり、そのほか医師1人がおりました。

 当村南方の湊町海津は、古代北陸道の要路として塩津と競った宿場町(海津宿)でもありました。

 そのため海津宿は宿内3町と山ノ内7ヶ村(小荒路、野口、浦、山中、下、在原、白谷)の10ヶ村組合宿とも称し、宿の諸費用は10ヶ村に分賦されました。

 明治22年(1889)小荒路村、野口村、山中村、浦村、下村、在原村の6ヶ村が合併して剣熊村が成立しました。

 昭和30年(1955)海津、西庄、百瀬の3ヶ村と合併してマキノ町となりました。

 平成17年(2005)1月、マキノ町、今津町、朽木村、安曇川町、高島町、新旭町の5町1村が合併して高島市となりました。


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3 七里半越の歴史

(1) 古代北陸道のルート


 古代北陸道を語るとき、「延喜式」{927(延長5)完成}に規定された駅路や万葉集、平城京の木簡等を根拠にルートを推定していますが、確定困難で見解が分かれています。

 とくに近江から越前へ通じる飛鳥・奈良期の官道ルートは特定し難く、いくつかの説に分かれます。

 ① 穴多駅(大津市)から和邇駅(滋賀郡志賀町)、三尾駅(高島市安曇川町)と琵琶湖西岸を北進し、三尾(高島市高島町)

 あるいは今津(高島郡今津町)から若狭国に入り葦田駅(若狭町横渡付近)、弥美駅(美浜町河原市付近)を経て関峠を越え松原駅(敦賀市)に至ったルート(水坂・関峠越えルート)

 ② 穴多駅、和邇駅、三尾駅、鞆結駅(高島市マキノ町石庭)と琵琶湖西岸を北進して牧野、白谷(高島市マキノ町)を経て

 知内川支流の八王子川を遡り、江若国境の峠を越えて越前に入り黒河川の谷を下って松原駅に至ったルート(黒河越えルート)

 ③ 鞆結駅までは②のコースと同じですが、ここから江若国境の粟柄峠を越えて若狭国へ入り、

 能登、新庄を通り、耳川沿いに弥美駅(美浜町河原市付近)を経由して関峠を越え松原駅に至ったルート(粟柄越えルート)

 ④ 鞆結駅までは②のコースと同じですが、ここから野口(高島市マキノ町)を経て

 七里半越で越前に入り、追分、疋田、道口(敦賀市)を経て松原駅に至ったルート(七里半越えルート)

 ⑤ 琵琶湖西岸を北上し鞆結駅から七里半越えで松原駅に至ったのが北陸本道で、三尾駅付近で西進して水坂峠を越えて若狭国へ入り、

 葦田駅、弥美駅を経て松原駅に至ったのが若狭支路だったとする本道、支道の二本立ルート

などが文献に見られます。

 平安期初期になり前記ルートのうち④が有力となり、七里半越、海津道、西近江路と名を変えて引き継がれていきます。

 このように北陸道ルートに違いが見られるのは、飛鳥期にできた律令制度が時代とともに変質、崩壊していく過程で交通制度も変化していったからでしょうか。



古代北陸道周辺図と現集落名

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(2) 湖北の津と湖上交通の発展

 近江国(滋賀県)には琵琶湖(淡海)が存在したので、古代から湖上交通が盛んに利用され、湖北三湊といわれた塩津・大浦・海津の湊が発達しました。

 越国(越前国)の敦賀湊に陸揚げされた諸物資は、陸路で近江国の湖北にある塩津・海津・大浦の各湊まで運ばれ、

 ここから湖上交通で大津まで輸送され、さらに陸路又は河川交通で都へ運ばれました。このように敦賀と湖北を結ぶ陸路は古代からできていました。

 このうち塩津と敦賀を結ぶ深坂越えの塩津道が最も古い陸路であろうと思います。

 それは琵琶湖の最北部にあった塩津湾に面した地にあり、北陸の海塩や官物を大津に運ぶ湊だったことや万葉の頃から湖北の水駅として有名なためです。

 神亀4年(727)笠朝臣金村は、平城京から湖上交通で塩津に達し、深坂越で敦賀に至り、敦賀津から乗船して府中へ向かいました。

 このとき塩津からの山越えについて「万葉集」巻三に次のような歌があります。

 「塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬そつまづく家恋ふらしも」笠 金村

 塩津湊と相前後して大浦湊が開け、その後、発展したのが海津湊でないかと思います。

 それは平安初期に古代北陸道のルート(海津道)が確定し、諸物資の輸送が増えてきたからです。




(3) 愛発関の所在地について

 古代北陸道の歴史を語るとき、古代三関の一つである愛発関に触れないわけにはいきません。

 しかし、愛発関がどこにあったのか古代北陸道のルート同様、位置を特定することができません。

 古代三関は延暦8年(789)に廃止されましたが、愛発関の所在地について次の諸説があります。

 ① 七里半街道(西近江路)の峠付近を想定する説
 ② 七里半街道(西近江路)の追分とする説
 ③
七里半街道(西近江路)と湖東からの刀根越道とが合流する疋田とする説
 ④ 敦賀平野渓口部に位置した道口とする説
 ⑤ 若狭国経由の古代北陸道の関峠を越えた付近とする説

 いずれも越前国敦賀郡(敦賀市)にあって相当の理由がありますが、古代北陸道のルートや古文書・資料の解釈によって見解が分かれます。



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(4) 愛発関と恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱

 越前敦賀郡の南部、海津道に沿う一帯の山を愛発山と呼び、その最高峰が乗鞍岳(標高865m)です。また愛発は有乳、荒血、荒道、荒茅、阿良知とも書かれています。

 飛鳥期、愛発山に置かれた愛発関は美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関と並んで三関の一つとして重視された関でした。

 関は主要な国境に置かれ、浮浪・逃亡という不法な交通を取締ったり、治安の維持にあたりました。

 なかでも三関は最重要な関と位置づけられ、天皇の死去や乱の起こった時には閉じられ(固関という)、交通を制限し内乱の拡大を防止しました。

 愛発関がその威力を最も発揮したのが、奈良期の天平宝字8年(764)9月に起きた恵美押勝の乱の時でした。

 淳仁天皇の信任の厚かった正一位大師(太政大臣)の押勝は、孝謙太政天皇の重用する僧道鏡が次第に台頭し政権基盤が揺らいできたのに危機感を抱きクーデターを起こします。

 そして天皇の権力を象徴する駅鈴と内印を奪おうとしますが失敗し、都を離れ藤原氏との関係の深い近江国をめざしました。

 政府は直ちに三関固守(三関を閉じること)の措置をとるとともに、政府軍を先回りさせ近江の勢多橋を焼き落としました。

 遅れ着いた押勝は瀬田川の東にあった国府に入ることができず、やむなく湖西を通って越前へ向かいました。

 当時、越前の国守は押勝の息子の辛加知でしたが、政府軍は再び先回りして辛加知を殺し、愛発関を押さえました。

 それとは知らず愛発関にきた押勝軍は、行く手を阻まれて退却を余儀なくされますが、

 再度態勢を立て直し愛発関をめざしましたが多くの犠牲者を出し、さらに近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘にも敗れます。

 進退窮まった押勝は船で湖上を逃げますが、結局捕えられ妻子従者ともども斬首されました。その間、わずか1週間の出来事でした。


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(5) 馬借と馬足道の発達

 敦賀は北国と京畿を結ぶ海陸交通の結節点で、古くから船道(海運業者)や馬借(馬の背に俵物などの諸荷物をつけて運搬する業者)が発達したところです。

 支配者(領主)は強固な軍事・経済力を保持するため馬借や船持商人などに特権を与えて手足として使い、

 領内経営の安定を図る一方、敦賀と湖北を結ぶ街道や宿駅を整備することに努めました。

 とくに中世から近世前期にかけて商業が発達し、北国と京畿との経済的な結びつきが一層強まり

 大量の穀物や木材が敦賀津に陸揚げされて京畿輸送の重要な中継地になりますが、その主役が海路の船道と陸路の馬借座でした。

 慶長5年(1600)関が原の戦に勝った徳川家康は、越前国に結城秀康、若狭国に京極高次を配置しました。

 慶長7年(1602)結城秀康は宿駅・伝馬制度を定めるとともに敦賀の馬借座を120匹としました。

 陸揚げされた米穀、木材、海産物などは馬借荷に造り変えられて馬借座に渡され、敦賀から湖北三湊(塩津・大浦・海津)へ運ばれました。

 敦賀の町馬借は慶長年間(1596〜1614)は120匹でしたが、元和9年(1623)には172匹に増加し、それに9匹の御免馬(無税の馬借)を合わせると計181座となりました。

 他方、疋田(敦賀市疋田)には在郷馬借が200匹ほどいましたが、座はなく下り荷の一部を運送しました。

 寛永元年(1624)若狭国主京極忠高に敦賀郡が加増され、以来敦賀郡は越前藩から若狭藩の領地となりました。

 敦賀町境を出た上り荷は、長沢番所(敦賀市長沢)で検問を受け、さらに道口番所(敦賀市道口)で駄別(通行税)を徴収されました。

 駄別は荷馬1駄に米2升でしたが、最盛期頃の寛文3年(1663)敦賀郡内の馬数は1,295匹おり、そのうち馬借馬が372匹、牛が338匹とあり、

 また、寛文4年(1664)の駄別銀は340貫となって小浜藩(若狭藩)全収入の10数パーセントに達したといわれます。

 この輸送経路のうち七里半越(海津道)は「馬足道」の扱いを受ける主要道路として重視されました。

 小浜藩では敦賀郡と三方郡の山東郷(美浜町山東地区)から村別に牛馬数に応じて人足を出させて道、橋の修繕や冬期の雪割作業をさせて街道の維持管理にあたりました。

 他方、敦賀から塩津へ出る新道野越(塩津道)は、近世初めに整備された新しい街道ですが、

 他の街道より傾斜が緩やかなうえ冬の積雪がやや少なかったので、よく利用されるようになり馬足道に準じた扱いを受けました。

 こうして最盛期の寛文期(1661〜1672)には上り荷(敦賀から湖北へ輸送する荷物)は、敦賀郡内の馬借座が保有する381匹(御免馬9匹を含む)では間に合わず、

 三方郡や馬借の補助的役割を担った平馬
(へいま)や背持(せもち)を総動員して1日2600〜2700駄分の荷物を近江へ送ったといわれます。

 しかし、寛文12年(1672)河村瑞賢が北国の城米を敦賀津を経由しないで大坂から江戸へ輸送する

 西廻り航路を確立させた後、敦賀へ入津する諸物資が減少し、馬借の中には荷物にありつけない者も現れました。

 その理由は北国から敦賀〜琵琶湖〜大津〜大坂という輸送ルートは、途中の海陸運送で積み替えが多く諸費用がかさみ、そのうえ米が目減りして結局運賃が高くついたからです。

 なかでも座を持たなかった疋田馬借は大きな打撃を受けましたが、北前船の敦賀寄港により辛うじて街道輸送が維持されました。

 しかし、安政年間(1854〜1859)の深坂越え、明治11年(1878)の新道野越えの塩津道が整備改良されたこと、国道8号線や国鉄北陸線のルートからも外れて全く衰微しました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県   角川書店
角川日本地名大辞典25滋賀県   角川書店
日本歴史地名大系滋賀県の地名   平凡社

越前・若狭峠のルーツ     上杉喜寿著
越前・若狭歴史街道      上杉喜寿著

近江・若狭と湖の道      藤井譲治編
福井県の歴史         印牧邦雄著
福井県史 通史編1        福井県





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