3 峠の歴史
(1) 平吹城主・佐々布光林坊の墓跡
越前国平吹郷を知行した朝倉氏家臣の佐々布光林坊掟俊は、朝倉氏滅亡後、
天正2年(1574)数万の一向一揆勢に攻められ、守備する平吹城(越前市中平吹町付近)が落城しました。
光林坊は敦賀へ逃げようと夜陰に紛れて城を脱出、日野川を渡り大塩から
瓜生野を経て菅谷峠へ向かう途中、追手に見つかり峠手前の尾根で自刃しました。
その自刃した場所が佐々布光林坊の墓跡です。この光林坊は峠の案内板には滋賀に住む国人領主で、
父の掟運は幼少の頃、お家騒動に敗れ出家しますが、帝の病気平癒祈願の功績で平吹郷を賜り
再び武士になり、その後、朝倉氏に仕え重臣として、一乗谷に館を構えたとあります。
しかし、一説では丹生郡佐々牟志神社別当の出自とされる同姓同名2名の佐々布光林坊が16世紀に活躍しています。
この2名は父子で、初代、二代として考えますと、永正3年(1506)加賀一向一揆が九頭竜川北岸に迫ったとき、
朝倉貞景は朝倉教景に命じ迎え撃たせますが、これに初代佐々布光林坊も従軍し一揆勢を撃退しました。
大永7年(1527)将軍足利義晴に供奉した朝倉教景は、京都泉乗寺口で三好勢と戦いましたが、初代光林坊はこの戦いで戦死しました。
弘治元年(1555)加賀に出陣し一向一揆勢と戦った朝倉宗滴は陣中で突然、病に倒れ、
一乗谷に帰還しますが、二代光林坊は、そのまま加賀に布陣して一揆勢と対峙しました。
永禄11年(1568)足利義昭が一乗谷朝倉館に義景を訪ねると詫美屋敷を警護しています。
朝倉氏滅亡後は織田信長に属し、本領を安堵されましたが、天正2年(1574)越前一向一揆が起きると一揆勢のため同地を追われました。
こうして見ると菅谷峠近くの佐々布光林坊の墓跡は、二代光林坊のものと考えられます。
(2) 徳山城主徳山貞輔、朝倉敏景に仕え塩を確保
美濃徳山城主、徳山二郎右衛門貞輔が文明4年(1472)朝倉氏に仕え「大塩保」(南越前町王子保付近)を拝領しました。
領地となった大塩保を管理し朝倉館に参勤するため、美濃徳山村から高倉峠・冠越を利用したと伝えられます。
徳山氏は、かつて南朝方に属して越前を転戦したとき、美濃側の北朝方に塩の道を押さえられ、
その後、美濃土岐家や斎藤家によっても塩の移入を遮断され、しばしば領民とともに苦しい思いをしたといわれます。
昔の武将は、よく「塩攻め」という手を使いましたが、徳山二郎右衛門が朝倉家の臣下になった理由の一つは「塩」の入手にあった考えられます。
その頃、越前の大塩は敦賀湾沿岸で生産される塩を一手に引き受ける「塩座」があったと考えられ、
越前国内に販路をもった徳山家は、この塩と大塩保でとれた年貢米を高倉峠を利用して運ばせ、参勤に便利なよう道の改修にも努めたようです。
米、塩を確保すれば、軍略的に揖斐川沿いの下流の道が遮断されても生活上支障はなく、
領民に平和な生活をさせることができたから朝倉家に仕えたものと考えられます。
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