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菅 谷 峠

整備された菅谷峠付近峠付近から日野山を望む


1 菅谷峠
(南越前町)・・すげんたんとうげ

 南越前町の「ホノケ山」(標高737m)北方尾根にある標高571mの峠です。

 この峠道は敦賀市(旧東浦村)元比田から山中峠の北斜面を伝って南越前町菅谷を通り、

 さらにホノケ山の北斜面を上って峠の頂上近くから、1つは越前市瓜生野に、1つは南越前町奥野々に下る峠でした。

 口伝によると、この道は「塩の道」であったといわれ、その終点が越前市大塩で、ここで塩が売捌かれたといいます。

 塩は、主に旧東浦村(敦賀市)の下四ヶ浦(元比田、大比田、杉津、横浜)などで作られ、菅谷峠を越えて大塩などへ運ばれました。

 かつては大谷浦以外の大良、河野、今泉、甲楽城、糠などの各浦でも小規模な「製塩」が行われ塩浜もあったようです。

 昔、浜伝いに道があったのは「古名考」で明らかですが、いつしか砂浜がなくなり、

 塩浜が消滅して製塩もできなくなり、浜伝いの道が高所に移って菅谷道になりました。

 「塩の道」は道の中でも古道に属するといわれ、古代、塩は貴重品で人々は遠方から塩を求めてやってきました。

 したがって「塩の道」は古い形の峠道であり、全国的に山の尾根筋につけられた所が多いといわれます



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廃村の菅谷集落風景廃村の菅谷集落風景


2 峠下の集落

(1) 菅谷村
(南越前町)・・すげのたに

 河野川の上流、足谷山の南麓にあった集落名です。(現在は廃村になって地名だけが残る)地名の由来は末谷
(すえのたに)から転じたといわれます。

 往昔は元比田(敦賀市)から府中(越前市)へ塩を送る通路に当たり、菅谷峠から大塩谷(越前市)へ出た古道が今も山の尾根に残っています。

 当村は越前国敦賀郡に属し、江戸期、はじめ小浜藩領でしたが天和2年(1616)から鞠山藩領になりました。

 慶長国絵図には敦賀郡内に菅谷村10石余と見え、江戸期の「正保郷帳」には

 菅谷浦とあって田方2石余、畑方8石余の計10石余、家数、人数は不明です。

 村は豊富な山林を利用して薪や木炭を大比田浦に売ったり、山を貸したりする一方、

 製紙用や藍玉つくりに必要な灰作りも盛んで、一時、菅谷の木がなくなるといわれるほどでした。

 享保8年(1723)頃から漸く炭焼きが生業となって普及し、明治22年(1889)河野村の大字名となり戸数23、人口121でした。

 製炭を唯一の生業としましたが、急激に過疎化が進み、明治40年(1907)からあった菅谷分校も昭和47年(1972)閉鎖され、廃村となりました。



(2) 瓜生野村(越前市瓜生野町)

 塩の道は菅谷峠を越えて北方の大塩谷を下り、瓜生野村を経て大塩から府中(越前市)へ続きました。

 「瓜生野」は足立山の北麓、大塩谷川の最上流域にあった古い村ですが、記録に乏しくよく分かりません。

 ただ中世は「大塩保」に属していたと考えられ、江戸期、瓜生野村は越前国南条郡に属した福井藩領で、

 寛文8年(1668)の家数17、寛政4年(1792)の家数13、人数48で村高は計136石です。

 明治22年(1889)王子保村の大字名、昭和29年(1954)武生市瓜生野町、平成17年(2005)越前市瓜生野町となりました、。

 幕末に記された瓜生野、奥野々村の願書(越前市立図書館保管文書)に「瓜生野、奥野々両村の持山を通って

 菅谷村、比田浦へ運送されている諸色、米穀を止めるため、掘切れをつくれと命ぜられたが、人夫不足なので加勢の人夫を出してくれ」との要請文があります。

 これから推測すると瓜生野や奥野々から菅谷峠を利用した菅谷村、比田浦への物資輸送が、幕末まで盛んだったことが窺われます。

 「大塩」という地名の由来は、往古、比田浦方面から運ばれてきた塩が「大塩」で捌かれたことに由来するといわれます。



(3) 奥野々村(南越前町奥野々)

 日野川の支流奥野々川の上流に位置した集落で、かつて木地の製造が盛んに行われていことから中世の奥野々村は杣山荘に属していたといいます。

 江戸期、奥野々村は越前国南条郡に属し福井藩領で村高278石余とありますが、家数、人数は分かりません。

 西方の菅谷峠を越えて河野浦へ通じる道沿いにあったので、、福井藩の口留番所が置かれました。

 明治11年(1878)の戸口は戸数49、人口249、明治22年(1889)南杣山村、昭和29年(1954)南条村、昭和39年(1964)南条町、平成17年(2005)南越前町の大字となりました。



3 峠の歴史

(1) 平吹城主・佐々布光林坊の墓跡

 越前国平吹郷を知行した朝倉氏家臣の佐々布光林坊掟俊は、朝倉氏滅亡後、

 天正2年(1574)数万の一向一揆勢に攻められ、守備する平吹城(越前市中平吹町付近)が落城しました。

 光林坊は敦賀へ逃げようと夜陰に紛れて城を脱出、日野川を渡り大塩から

 瓜生野を経て菅谷峠へ向かう途中、追手に見つかり峠手前の尾根で自刃しました。

 その自刃した場所が佐々布光林坊の墓跡です。この光林坊は峠の案内板には滋賀に住む国人領主で、

 父の掟運は幼少の頃、お家騒動に敗れ出家しますが、帝の病気平癒祈願の功績で平吹郷を賜り

 再び武士になり、その後、朝倉氏に仕え重臣として、一乗谷に館を構えたとあります。

 しかし、一説では丹生郡佐々牟志神社別当の出自とされる同姓同名2名の佐々布光林坊が16世紀に活躍しています。

 この2名は父子で、初代、二代として考えますと、永正3年(1506)加賀一向一揆が九頭竜川北岸に迫ったとき、

 朝倉貞景は朝倉教景に命じ迎え撃たせますが、これに初代佐々布光林坊も従軍し一揆勢を撃退しました。

 大永7年(1527)将軍足利義晴に供奉した朝倉教景は、京都泉乗寺口で三好勢と戦いましたが、初代光林坊はこの戦いで戦死しました。

 弘治元年(1555)加賀に出陣し一向一揆勢と戦った朝倉宗滴は陣中で突然、病に倒れ、

 一乗谷に帰還しますが、二代光林坊は、そのまま加賀に布陣して一揆勢と対峙しました。

 永禄11年(1568)足利義昭が一乗谷朝倉館に義景を訪ねると詫美屋敷を警護しています。

 朝倉氏滅亡後は織田信長に属し、本領を安堵されましたが、天正2年(1574)越前一向一揆が起きると一揆勢のため同地を追われました。

 こうして見ると菅谷峠近くの佐々布光林坊の墓跡は、二代光林坊のものと考えられます。



(2) 徳山城主徳山貞輔、朝倉敏景に仕え塩を確保

 美濃徳山城主、徳山二郎右衛門貞輔が文明4年(1472)朝倉氏に仕え「大塩保」(南越前町王子保付近)を拝領しました。

 領地となった大塩保を管理し朝倉館に参勤するため、美濃徳山村から高倉峠・冠越を利用したと伝えられます。

 徳山氏は、かつて南朝方に属して越前を転戦したとき、美濃側の北朝方に塩の道を押さえられ、

 その後、美濃土岐家や斎藤家によっても塩の移入を遮断され、しばしば領民とともに苦しい思いをしたといわれます。

 昔の武将は、よく「塩攻め」という手を使いましたが、徳山二郎右衛門が朝倉家の臣下になった理由の一つは「塩」の入手にあった考えられます。

 その頃、越前の大塩は敦賀湾沿岸で生産される塩を一手に引き受ける「塩座」があったと考えられ、

 越前国内に販路をもった徳山家は、この塩と大塩保でとれた年貢米を高倉峠を利用して運ばせ、参勤に便利なよう道の改修にも努めたようです。

 米、塩を確保すれば、軍略的に揖斐川沿いの下流の道が遮断されても生活上支障はなく、

 領民に平和な生活をさせることができたから朝倉家に仕えたものと考えられます。



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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
越前若狭歴史街道     上杉喜寿著
「福井県史」通史編2  中世 福井県





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