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杉 峠

杉峠六本桧


1 杉 峠(福井県大野市・石川県白山市の境界)

 九頭竜川の支流、打波川の最上流域にあった大野市上小池と白山市白峰の三ッ谷を結んだ標高約1,320mの峠です。

        
峠の位置はこちらです。

 峠名は、かつて峠付近に大杉があり、峠の目印になったことから付いたようです。

 峠道は上小池から背後の尾根筋を上って峠へ向かい、峠から北も東俣谷川と中俣谷川の間の尾根筋を通って

 三ッ谷川筋へ下り、市ノ瀬より約1.5km下方で手取川上流の牛首川に合流する谷に至る道でした。

 しかし、この峠道も利用する人が絶えて久しく、道跡も消えてしまいました。

 ただ、大野市上打波から三ノ峰(標高2,128m)への登山コース途中の六本桧から西方へと尾根を下って杉峠へ達することができるようです。



2 峠下集落

(1) 上打波
(福井県大野市)

 九頭竜川の支流、打波川流域にあって、経ヶ岳(標高1,625m)、赤兎山(標高1,628m)の南麓に位置した1,600m級の山々に囲まれた山間地で、越前国大野郡に属していました。

 戦国期には村名が見え、近世には中洞、小池、芋ヶ平、奥平、中村、嵐、桜久保、木野、鍋ヶ平などの枝村があり、

 村人は、これら小集落に散居していました。最奥部には上小池、下小池、奥平の小集落がありました。

 江戸期、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)から美濃郡上藩領になりました。この頃、打波谷地域を南山中東谷と呼んでいました。

 村高は「正保郷帳」によると6石余、すべて畑方で、享保6年(1721)の覚書によると村高6石余、反別2町8反余とあり、

 明治期の「足羽県地理誌」には戸数200、人口1,419人(男709、女710)、馬16、牛3とあります。

 村人は山腹や山上の林地を開墾して切替畑(焼畑耕作)とし、稗、粟、大豆、小豆などをつくり、養蚕、林産物の採集加工を行って生計を維持しました。

 この山林開墾地を出作りといい、毎年5月〜11月の間、一家族が移転して出作りに従事しました。

 明治22年(1889)当地は五箇村の大字となり、昭和29年(1954)大野市の大字となりました。

 昭和36年(1961)8月の「奥美濃地震」は、この付近が震源地といわれ、近くにある願教寺谷や涸沢が大崩壊して山容を変えたといわれます。

 打波谷の最奥部にあった上・下小池の集落は、この地震で壊滅し無人の里になりました。

 また、過疎化の波は打波谷にも押し寄せ、明治41年(1908)上打波村は185戸ありましたが、昭和63年(1988)には23戸、37人となりました。


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(2) 白峰(石川県白山市)

 白山(標高2,702m)西麓の山間地で、手取川上流を牛首川が北流し、両岸の山地からは多くの支流が同川に合流している地域です。

 地名の由来は白山の山嶺に近いことに由来しますが、この村名は明治9年(1876)に牛首・風嵐の2ヵ村と旧白山権現領(河内)が合併して成立したものです。

 明治12年(1879)の戸数426、人口3,716、牛2、馬24、ほかに寺院3(真宗大谷派の林西寺、行勧寺、真成寺)などがありました。

 山に囲まれた白山麓は平地が極めて少なかったため、昔から加越国境の山間部に

 点在する平坦地や緩やかな傾斜地を利用した出作り農業(焼畑農業)が盛んに行われました。

 明治22年(1889)に白峰・桑島・下田原の3ヵ村が合併して白峰村が成立しました。

 はじめ石川県能美郡に属し、昭和24年(1949)から石川郡に属しました。

 明治29年〜32年(1896〜1899)の水害で離村者が増加、とくに赤岩、市ノ瀬の出作り農家70戸のうち32戸が北海道へ移住しました。

 主な生業であった出作り農業(焼畑農業)は、昭和9年(1934)の322戸を境に昭和25年〜26年(1950〜1951)頃から急激に衰退しました。

 昭和50年(1975)手取川本流多目的ダムの建設に伴い、下田原全戸と桑島大半の住民が村外に移住しました。


刈込池刈込池

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3 峠の歴史

(1) 上打波・白峰の村人が越えた峠

 上打波村は広大な山林を有しましたが田が少なく、昔から出作りによる焼畑耕作に依存していました。

 また、昔は村の北にあった杉峠を通して白峰村との関係が深く、とくに小池は白峰村からの出作人が定住した

 集落といわれ、小池の笠踊りや、かんこ踊りは白峰村の踊りと非常に似ています。

 古く白峰村の人々が出作り(焼畑)で生活圏を広げていくうちに杉峠を越えて

 打波谷へ入り込み、打波川下流域から上流へ延びてきた村人達と混在したと考えられます。



(2) 美濃馬場の白山参詣者から役銭を徴収

 16世紀後半、石徹白村(岐阜県郡上市)の石徹白長澄から越前国大野郡司朝倉景鏡に宛てた5月11日の書状に、

 「上打波衆が白山三ノ峰(標高2,128m)に新関を設けて、役銭を徴収しているので白山参詣者が難儀している。」と訴えたものがあります。

 また、同じ頃の9月7日の書状には「白山麓の加賀牛首・風嵐の者達が白山別山(標高2,399m)の関所において役銭を徴収したので、

 石徹白長澄が搦め捕ろうと赴いたところ、上打波の山本又太郎と雨池助佐衛門の二人が、

 牛首・風嵐の者に代って別山を支配しているので、朝倉氏の力で関所を停止してほしい。」というのもあります。

 このように美濃から白山(標高2,702m)へ参詣する者に対し、上打波の人々が加賀牛首・風嵐の人々と結びつき、白山の地で関料を徴収するなど活動していたことを示しています。

 他方、石徹白は、古代から越前大野郡に属し、中世には大野郡小山庄に含まれましたが、

 白山中居神社は美濃馬場に属しており、美濃郡上郡とつながりの深い地域でした。

 中居神社の神主家である石徹白家は、室町期に郡上郡粥川
(かいがわ)から児河合(こがわい)という人を養子に迎えたとされ、縁組みなどでも郡上郡とつながっていました。

 また、戦国時代には石徹白源三郎が郡上郡東氏の家臣であったと伝えられています。

 しかし、天文9年(1540)8月に朝倉孝景の支配が石徹白にも及び、朝倉氏が郡上郡山田篠脇城(郡上市大和町)の東常慶を攻撃するようになると、

 石徹白氏をはじめ石徹白の社家たちは、朝倉氏の家臣となり、越前朝倉氏領国に組み込まれていきました。

 戦国末期、石徹白氏支配の白山三山の一つ、別山における白山登拝者からの関銭徴収の権利が、

 加賀白山麓の牛首・風嵐(石川県白山市白峰)や越前大野郡上打波(福井県大野市)の人々に侵害されるようになったため、

 石徹白氏は朝倉氏を頼って彼らを排除しようとしたのが前記文書です。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前・若狭山々のルーツ      上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道 隼田嘉彦・松浦義則編著





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