1熊河(くまのこ)峠(福井県今立郡池田町・福井県大野市)
大野市熊河と池田町美濃俣との間にあった標高約1,010mの峠でした。峠名は熊河へ越えるので付いたのでしょうか。
峠の地図はこちらです。
かつて、ここには雲川上流の熊河川・温見川の谷と池田谷(池田町)とを繋ぐ道が通っていました。
中世、温見金山で産出された金銀は、この道を通って一乗谷へ運ばれたといわれます。
美濃俣川の谷や峠は、活断層の温見断層上にあるため、昭和34年(1959)の地震発生時に地滑りを起して峠下にあった集落の美濃俣は廃村に追い込まれました。
また、反対側の峠下にあった集落の熊河も、その後、まもなく廃村となり、峠から東側は廃道になってしまいました。
2 峠下集落
(1) 美濃俣村(今立郡池田町美濃俣)
部子山の南西麓、足羽川の支流水海川の上流域に位置した村でした。当地は美濃国から移り住んだ人々によって村づくりが行われたと伝えられます。
越前国今立郡に属し、江戸初期は水海村に含まれていて枝村「蓑俣」として出てきます。
その後、享保6年(1721)鯖江藩主間部詮言知行付などによると美濃俣村一村として扱われています。
これは水海村から距離も離れているうえ、江戸中期までに家数も増えて村を形成していたと考えられます。
享保6年(1721)池田郷中村々明細帳によれば家数17、人数92とあり、鯖江藩領に属していました。
明治22年(1889)上池田村の大字となり、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)池田町の大字となりました。
昭和34年(1959)地内の八田平で大規模な地滑りが発生したため、全世帯が移転し無住地となりました。
(2) 熊河村(大野市熊河)
雲川の左岸、同川支流の熊河川との間に位置した15戸ほどの村でした。「名蹟考」には池田郷美濃俣村から東に向かい、
深山を越えて入る所と書かれていますが、美濃俣からの山道は約10kmあまり、その中程に熊河峠がありました。
越前国大野郡に属し江戸初期は福井藩領、貞享3年(1686)からは幕府領となりました。
明治22年(1889)西谷村の大字、昭和45年(1970)大野市の大字となりました。
昭和30年(1955)代になって伊勢湾台風、第2室戸台風、三八豪雪などで甚大な被害を受け、昭和39年(1964)離村し、無住地となりました。
3 美濃俣の地名と伝説
前記美濃俣村の伝説などを紹介しておきたいと思います。美濃俣は正元元年(1259)美濃の人が隠れ住んだところと伝えられます。
一説には美濃守護職斎藤家の井ノ口城を築城した「城大工」が難を避けて隠れ住んだといいます。
その頃、築城に功績のあった城大工は慰労のため恩賞の金子を頂戴すべきところ、城郭の秘密漏洩を恐れ、多くは殺されたようです。
彼等は危険を察知して完成間近に監視の眼を盗み、この辺に逃亡隠棲したというのです。
彼等は斎藤家が亡び、井ノ口城主が何代か入れ替わった頃、この美濃俣を棄て天正元年(1573)旧岡本村に移ったといいます。
他方、美濃から移り住んだ木地屋達の開村だとする説もあります。「美濃俣」の地名は、このほか旧打波村(大野市)にもあります。
打波村は江戸中期、美濃郡上藩領となり、郡上八幡まで行く用事が増えたため、
その短路として橋立峠が利用されるようになりましたが、打波からこの峠に向かう谷筋を美濃俣と呼んだそうです。
池田の美濃俣も同様、水海集落から3kmばかり上手に「追分」がありました。
追分から直登したところの峠が巣原峠で、奥池田と呼ばれた旧西谷村巣原に通じていました。
追分から右折すると美濃俣で、ここを通り熊河峠、温見峠を越え美濃国に通じていました。
このようにみますと「美濃俣」は、美濃に赴く分かれ道という意味が込められていたのでしょうか。
「俣」をつけて呼ぶ地名がありますが、それぞれの行先の名が冠せられているものが多いようです。
鯖江誠照寺本山の美濃廻国は、往路にこの峠を越えました。水海の誠徳寺で休泊し、
峠を越えて熊河養休寺で休み、温見善久寺で休泊するという日程だったようです。
岐阜県根尾、温見峠、熊河峠、美濃俣、水海、野尻を結ぶ線は、
明治24年(1891)10月の濃尾大地震の活断層線上にあり、大きな被害を受けたところです。
昭和23年(1948)6月の福井大地震でも、この付近の断層に影響を与えたのか震源地から遠く離れながらも、かなりの被害を受けたようです。
この時、峠付近にできた地割れが昭和34年(1959)に突如、大地滑りとなって発生し、
流出した土砂が集落を襲い、村民は村の将来に見切りをつけ全員離村することになりました。
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