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魚 見 坂

魚見トンネルと峠の祠魚見峠から池田方面を見下ろす


1 魚見坂
(今立郡池田町・武生市)

 武生市入谷町から鞍谷川に沿って今立郡池田町境へ上っていく標高約330mの坂(峠)です。坂の名は池田町魚見へ至ることから付いたようです。

 上りの比高が約200mに対し、峠から魚見(辻)までの下りが約50mしかありません。

 武生から味真野を経て池田に至る道の一部で、古くから利用された坂(峠)でした。

 明治41年(1908)に峠下を掘削した全長81mの魚見トンネルが開通し、昭和8年(1933)改修されて

 池田と武生を結ぶ最も重要な幹線道路となり、定期バスが一日5〜6往復するようになりました。



2 峠下集落

(1) 入谷
(武生市入谷)

 鞍谷川の最も上流域に位置した集落で、蓑脇、中居とともに鞍谷村(倉谷村)として慶長検地帳(1596〜1614)に載っています。

 地名の由来は谷の奥に入った集落であることからでしょうか。池田街道は、ここから魚見坂を通って

池田に向かいました。入谷口には野瀬城と呼ばれた朝倉氏時代の城跡があります。

 江戸期は越前国今立郡に属し、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)から一時期、

大坂城代土岐頼殷領となり、その後、幕府領を経て享保5年(1720)から鯖江藩領になりました。

 鞍谷村が蓑脇村、中居村、入谷村に分村して成立したもので、郷帳には鞍谷が付されています。

 村高は元禄郷帳によると76石余、文化15年(1818)の越前宗門帳では家数51、人口220とあります。

 小字名に金場、奥金場などがあり文室鉱山と鉱脈が通じていたことを示しています。

 明治22年(1889)味真野村の大字となり、この頃、人口306人(男156、女150)、戸数53ありました。


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(2) 魚見(今立郡池田町魚見)

 足羽川の支流、魚見川の最上流域に位置した集落で「越前地理指南」に「三ヶ所居ス」とあり、早くから三集落に分居していたようです。

 魚見坂を越えて鞍谷(入谷)へ通じていました。慶長国絵図には大味村、「正保郷帳」には魚見村とあります。

 地名は、もと「いよみ」と呼ばれ、それが大味、魚味、魚見になったといい、地元では近年まで「いよみ」と発音する人が多かったそうです。

 元禄年間の村々明細帳に枝村として中出と金山が、「越前名蹟考」に中出、金山、辻が記されています。

 現在も、この三集落を総称して魚見と称していますが、伝承によれば、斯波義敏の家臣で金掘奉行の内藤但馬守が、

 多くの鉱夫を連れてきて住まわせ、金山を採掘したのが始まりといわれています。

 江戸期は越前国今立郡に属し、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)大坂城代土岐頼殷領、

 その後、幕府領を経て享保5年(1720)からは鯖江藩領となりました。

 村高は70石余、元禄年間の村々明細帳では戸数64、人口289とあります。その後、文化15年(1818)の村高家数人別寺院帳では、家数81、人数360と増加しています。

 当村には鉛鉱山があり、弘化3年(1846)に池田東俣村の飯田彦次兵衛が大富士鉱山で採掘した鉛5貫目を鯖江藩に献上しています。

 明治22年(1889)上池田村、昭和30年(1955)池田村、昭和39年(1964)から池田町の大字となりました。

 明治27年(1894)徳礼谷で鉛鉱の試掘が行われ、明治39年(1906)大藤山での銀銅鉛の

 試掘許可申請が出されましたが、企業化するまでには至りませんでした。


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3 魚見坂の歴史


(1) 府中から鎌倉への近道


 鎌倉期、府中(武生市)からこの坂を越えて池田に入り、冠越で美濃(岐阜県)に出て鎌倉に至る近道だったと伝えられます。

 その頃、越前は北条氏の領国でしたから、この外にも鎌倉へ向かうための鎌倉街道と呼ばれる道がありました。

 鎌倉期が過ぎますと、この呼称は美濃街道に代りました。

 また、この坂は池田から府中へ向かう道として利用者が多かったのですが、

 江戸期、享保5年(1720)上池田郷が鯖江藩領になると板垣峠、清水谷峠の利用者が多くなりました。



(2) 坂峠の道普請について 

 昔から坂峠は、峠下にある村をはじめ最寄の村々で道普請が行われ、関係する地係へ諸経費が分担されました。

 上池田郷の大庄屋に保存されてきた古文書中には、この峠と板垣、清水谷の三坂峠についての改修関係の文書が多く保存されているそうです。

 この峠を境に池田側は、郷内38ヶ村で経費を負担し、特に坂ノ下の7ヶ村は人足となって改修に当たったようです。



(3) 幕末、水戸天狗党が池田郷を通過した際の混乱

 元治元年(1864)の冬、水戸天狗党が池田郷を通過するとき、この坂に柵や逆茂木を埋め込んで防備陣を構え、一時は大変な騒ぎだったと伝えられます。

 それは、天狗党がこの坂に向かえば府中の通過は必定となり、流言飛語が乱れ飛び、

 町中のあわて方は尋常でなかったといいます。まだ見ぬ影に怯え過ぎたわけです。

 しかし、天狗党が池田郷東俣から大坂を越えて宅良郷に入り、今庄宿へ向かったため府中の混乱は避けられました。



(4) 明治時代、魚見坂など三坂峠の改修順位で議論

 明治以後、魚見坂など三坂峠が改修されることになり、地元の池田では着工順について、

 どれを先にするか議論沸騰、結局、明治31年(1898)から板垣、清水谷、魚見の順で着工されることになりました。

 峠の切下げより隧道が良いというので、明治41年(1908)長さ45間(約81m)の隧道が魚見坂に完成しました。

 更に昭和8年(1933)3月、この隧道は71mに掘り替えられました。

 しかし、この隧道も昭和53年(1978)10月、スノーシェルタに改造され、峠までの

 入谷側の坂道も拡幅舗装され、昔の面影はすっかりなくなってしまいました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前・若狭峠のルーツ   上杉喜寿著






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