3 魚見坂の歴史
(1) 府中から鎌倉への近道
鎌倉期、府中(武生市)からこの坂を越えて池田に入り、冠越で美濃(岐阜県)に出て鎌倉に至る近道だったと伝えられます。
その頃、越前は北条氏の領国でしたから、この外にも鎌倉へ向かうための鎌倉街道と呼ばれる道がありました。
鎌倉期が過ぎますと、この呼称は美濃街道に代りました。
また、この坂は池田から府中へ向かう道として利用者が多かったのですが、
江戸期、享保5年(1720)上池田郷が鯖江藩領になると板垣峠、清水谷峠の利用者が多くなりました。
(2) 坂峠の道普請について
昔から坂峠は、峠下にある村をはじめ最寄の村々で道普請が行われ、関係する地係へ諸経費が分担されました。
上池田郷の大庄屋に保存されてきた古文書中には、この峠と板垣、清水谷の三坂峠についての改修関係の文書が多く保存されているそうです。
この峠を境に池田側は、郷内38ヶ村で経費を負担し、特に坂ノ下の7ヶ村は人足となって改修に当たったようです。
(3) 幕末、水戸天狗党が池田郷を通過した際の混乱
元治元年(1864)の冬、水戸天狗党が池田郷を通過するとき、この坂に柵や逆茂木を埋め込んで防備陣を構え、一時は大変な騒ぎだったと伝えられます。
それは、天狗党がこの坂に向かえば府中の通過は必定となり、流言飛語が乱れ飛び、
町中のあわて方は尋常でなかったといいます。まだ見ぬ影に怯え過ぎたわけです。
しかし、天狗党が池田郷東俣から大坂を越えて宅良郷に入り、今庄宿へ向かったため府中の混乱は避けられました。
(4) 明治時代、魚見坂など三坂峠の改修順位で議論
明治以後、魚見坂など三坂峠が改修されることになり、地元の池田では着工順について、
どれを先にするか議論沸騰、結局、明治31年(1898)から板垣、清水谷、魚見の順で着工されることになりました。
峠の切下げより隧道が良いというので、明治41年(1908)長さ45間(約81m)の隧道が魚見坂に完成しました。
更に昭和8年(1933)3月、この隧道は71mに掘り替えられました。
しかし、この隧道も昭和53年(1978)10月、スノーシェルタに改造され、峠までの
入谷側の坂道も拡幅舗装され、昔の面影はすっかりなくなってしまいました。
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