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国道8号牛ノ谷峠国道8号牛ノ谷峠


1 牛ノ谷峠(福井県あわら市・石川県加賀市)

 あわら市牛ノ谷と加賀市熊坂町を結ぶ国道8号(標高約80m)の峠です。

 旧峠は東側約100mの谷を通る標高約120mの峠道でしたが、国道の開通により現在地に移動しました。

 古来、加越国境の重要な峠で、戦国期にはしばしば戦場になりました。江戸期には丸岡藩の口留番所が置かれました。

 明治6年(1873)坂井郡丸岡町の長田四郎作らが町活性化のために、車馬の通行できる新道開削を計画、旧峠道を切り広げて明治10年(1877)完成させました。

 熊坂または丸岡新道と呼ばれ、金津・細呂木回りの北陸道より福井〜大聖寺間が約10km短縮されましたが、当初25年間は通行人から路銭を取りました。

 明治11年(1878)明治天皇の巡幸路となり、同13年(1880)国道に昇格しました。

 現在は峠の西をJR北陸本線が、その西を北陸自動車道が通っています。
           峠の位置はこちらです。




2 峠下集落

(1) 牛ノ谷
(あわら市牛ノ谷)

 観音川上流の小盆地に位置し、鎌倉期から戦国期にかけて牛尾村として越前国坂北郡河口荘細呂宜郷のうちに属しました。

 当地は加越国境の要地の一つであり、戦国期には陣所が置かれたり、合戦場になりました。

 江戸期には牛ノ谷村として越前国坂井郡に属し、はじめ福井藩領でしたが寛永元年(1624)から丸岡藩領となりました。

 「正保郷帳」による村高は692石余(うち田方470石余、畑方221石余)、天保9年(1838)の家数51、人数88、馬5とあります。

 牛ノ谷峠道は、江戸期には加賀へ通じる脇道でしたが、福井藩主結城秀康のときに

 関所が設けられ、丸岡藩も明治2年(1969)まで口留番所を置き、番人、足軽2人ずつを配置しました。

 そのため牛ノ谷には旅籠屋や運送業に従事する牛飼いがあったといいます。

 明治5年(1872)の「足羽県地理誌」によると戸数49、人口252(男119女133)、馬20、

 田24町5反余、畑13町8反余とあり、物産は菜種、紬、薪などを産しました。

 明治22年(1889)坪江村の大字となり、昭和29年(1954)から金津町の大字、平成16年(2004)3月からあわら市の大字となりました。


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(2) 熊坂(加賀市熊坂町)

 大聖寺川の支流、熊坂川流域の上流から点在する石坂・北原・畑岡・庄司谷・吉岡・花房
(けぶそ)・花房出村の7集落を総称して熊坂と呼びました。

 平安期には荘園名として熊坂荘が見え、加賀国江沼郡の属し熊坂川の狭長な谷田地区を指したようです。

 平安末期から鎌倉期には院領・女院領として伝領され、その後、領家方は東福寺が領有、地頭方は室町幕府奉公衆の千秋刑部少輔が地頭職を知行しました。

 しかし、戦国になると有力百姓が成長して、領家・地頭の支配が次第に困難になっていきました。

 江戸期には熊坂村として加賀江沼郡に属し、大聖寺藩領となりました。

 村高は元禄14年(1701)の「大聖寺領高辻帳」で1,922石余、家数101、人口448、馬数28とあります。

 なお同書には「熊坂ノ内七村ニ分ル、村々持高如左、尤御印一紙也」とし、次のように出村の内訳を記しています。

 北原435石余、畑岡272石余、庄司谷396石余、吉岡342石余、花房314石余、

 花房出村94石余、石坂は「持高無之、今廃ス」とあり、天保末年(1843頃)には廃絶していたようです。

 明治13年(1880)当地区を通って牛ノ谷へ出る国道ができました。明治22年三木村の大字となり、戸数160、人口826ありました。

 明治30年(1897)国鉄北陸本線が開通し、花房出村近くに大聖寺駅が設置されました。

 花房より南の各集落は農業と林業が中心で薪炭や木材が生産されました。昭和33年(1958)加賀市の町名となりました。



3 峠付近の歴史

(1) 加賀一向一揆の大軍、越前へ侵攻し九頭竜川で決戦

 永正3年(1506)7月17日、総勢30万と伝えられる加賀一向一揆の大軍が加越国境の細呂木・牛ノ谷などの諸峠を越えて坂井郡へ侵攻してきました。

 一揆の大軍は、迎撃する朝倉教景(宗滴)率いる朝倉勢や豊原寺大染院、明王院ら衆徒勢と

 赤坂や豊原で合戦を重ねながら次第に南下し、7月末には朝倉方の死守線ともいうべき九頭竜川北岸まで侵攻し、川を挟んで対峙しました。

 この未曾有の決戦に備え、朝倉貞景は諸将を集めて軍議を開き、九頭竜川を防御線として諸隊を配置し、ここで一揆勢に反撃する作戦を決めました。

 8月2日、合戦は最下流の中角の渡しで始まりました。その後、朝倉勢が九頭竜川を渡河して先制攻撃したので、

 一揆勢は浮き足立って追撃され、加賀へ逃げ延びた者は10万にも満たなかったといわれ、一揆勢の完敗に終りました。

 この一戦の後、朝倉貞景は、厳重な一向宗(本願寺派)の禁止政策を取り、吉崎道場をはじめ領内の本願寺系の諸寺院をすべて破却し、

 坊主はもとより門徒の土地・財産を没収して、そのすべてを国外追放処分にしました。

 この時から数十年にわたって加賀・越前の一向一揆と朝倉氏との宿命的な対立が始まり、一向一揆の越前侵攻は、その後も断続的に行われます。



(2) 享禄の錯乱(加賀大一揆・小一揆)と牛ノ谷

 いわゆる享禄の錯乱
(注1)で越前に逃れた山田光教寺(顕誓)ら加州三ヶ寺派は、牛ノ谷(あわら市)に在陣して江沼奪回を図っていましたが、

 天文3年(1534)黒瀬左近四郎が出陣を装って風谷を越えて加賀に逃亡したため、計画は完全に失敗しました。

 これに関して「朝倉始末記」の加州牢人ドモ越前ヘ落来ル事の段には、越前に亡命した加賀の牢人衆が

 天文3年(1534)「牛ノ屋」を陣所として加賀に足軽を出したとの記載があります。



(注1)享禄の錯乱

 加賀一向一揆勢が永正3年(1506)の越前侵攻に失敗した頃の加賀では、領国支配の最高首脳層は三山の

大坊主と呼ばれた一家衆の若松の本泉寺・波佐谷の松岡寺・山田の光教寺で、いずれも領国拡大を望まない現状維持派でした。

 これに対し越前を追われて加賀に牢人した越前の大坊超勝寺・本覚寺の両寺勢力は、当時、加賀に下向していた

本願寺家老の下間頼秀・頼盛兄弟と結んで、再び越前侵攻の機を窺いながら、あわせて加賀・越中支配の野望も抱いていました。

 前者を小一揆、後者を大一揆と呼び両者は激しく対立しました。山田の光教寺蓮淳は超勝寺・本覚寺両寺の野望を

本願寺に訴えますが退けられたため、小一揆側は享禄4年(1531)5月、加賀の国侍らとともに兵を挙げました。

 これを享禄の錯乱と呼びます。これに対し超勝寺・本覚寺は能美郡の山内に立て籠もって、小一揆と戦いつつ松岡寺などを焼き払い、戦を優勢に進めました。

 戦況が不利となった小一揆側は越前朝倉氏に加勢を求めました。朝倉氏は超勝寺・本覚寺らの越前侵攻を恐れていたので、求めに応じて加賀へ派兵し、

 能美郡本折(小松市)まで兵を進め、手取川を渡河して大一揆側を敗走させましたが、北の能登・越中の

小一揆側が敗北したという報に接し、浮き足だち朝倉軍が兵を越前に引き揚げたため大一揆の完勝となりました。



(3) 加賀一向一揆勢、金津上野へ侵入し合戦

 永禄10年(1567)3月12日、加賀一向一揆勢は金津上野(あわら市上野)まで侵攻し、熊坂口、高塚、牛尾口(牛ノ谷口)において朝倉勢と合戦しました。

 この金津上野は熊坂川と権世川に挟まれた丘陵地帯を指し、現在のゴルフクラブ「ジャパンセントラル」の辺りでないかと思われます。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
角川日本地名大辞典17石川県     角川書店
日本歴史地名大系17石川県の地名   ㈱平凡社
越前・若狭峠のルーツ       上杉喜寿著
越前朝倉一族           松原信之著
本願寺と一向一揆         辻川達雄著






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