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山 中 峠

山中峠への登り口風景(南越前町側)山中峠付近から敦賀湾を望む


1 山中峠
(南越前町・敦賀市)

 敦賀市元比田と南越前町山中の境界尾根にある標高約390mの峠です。

 この峠道を古代の官道帰山路
(かえるやまじ)若しくは鹿蒜道(かひるみち)が越えていました。

 天長7年(830)に木の芽道が開通し、ここが官道になりましたが、山中越えは、その後も絶えることなく利用されました。

 「源平盛衰記」の白山神輿登山の事に「十五日にかえるの堂(南越前町南今庄)、十六日には水津の浦(敦賀市杉津)」とあり、

 また、京へ攻め上った木曽義仲軍の先陣も、ここを通過した事が記されています。

 近世、山中越えと呼ばれ、福井藩は口留番所を置きました。明治29年(1896)に開通した北陸本線は、この峠のほぼ下を山中トンネルで通過しました。

 昭和37年(1962)の北陸トンネルが開通し、この路線は廃線になりましたが、舗装道路に姿を変え現在も使われています。

 旧道は廃道になりましたが、山中トンネルの両側に登り道があり歩行は可能です。なお、今庄側は緩やかですが敦賀側は急坂です。


山中峠道山中峠要図

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2 峠下の集落

(1) 元比田
(敦賀市)

 西を敦賀湾に面して位置し、東背面は南条山塊が並立し、山裾は海岸にまで延びています。

 比田は間
(あいだ)という意味で、山深い谷の険しい大小の山並みが重畳した高台の土地を襞(ひだ)といいます。

 元比田、大比田ともに東背面の深い山や険しい谷が襞をなして海岸にまで延び、

 集落が山裾の小高い台地にあることから、地名の由来は、この地形からでたようです。

 元比田は大比田に対しての名称で、初めは比田浦一つだったのですが、安土・桃山期(1573〜1596)に

 大比田浦と元比田浦に分かれたようで、慶長国絵図には比田浦(元比田浦・大比田浦)と見え高457石余となっています。

 江戸期、元比田浦として越前国敦賀郡に属し、はじめ福井藩領でしたが、

 寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領となって幕末に至りました。

 「正保郷帳」では本比田浦とあり、田方34石余、畑方52石余の計86石余、

 享保12年(1727)の家数32、人数227、牛14、舟4、鉄砲1挺、塩竈屋2とあり、塩高61俵余(うち60俵余が大比田浜)、馬足6匹などを負担しています。

 明治初年の「滋賀県物産誌」によれば、「戸数33、人口164、牛7(貨物運送用)、住民は農業の傍ら

 三国港へ生計を営む者或いは物品運送に身を労する者あり」とあり、また産物は桐実220俵、葛粉20貫、特に桐実は大きな収益となったようです。

 明治22年(1889)東浦村の大字となり、昭和30年(1955)から敦賀市の大字となりました。

 当地と南越前町大谷間は、断層に刻まれた山腹と海蝕に悩まされる海岸線に沿っているため、

 冬季積雪期は交通が途絶し隘路になっていましたが、昭和37年(1962)河野海岸有料道路が山裾に開通し通行が容易になりました。



(2) 山中(南越前町)

 日野川の支流、鹿蒜川の最上流域に位置し、西は敦賀湾に臨みます。地名の由来は山の中に集落があったからでしょうか。

 江戸期、山中村として越前国南条郡に属し、福井藩領で幕末に至りました。

 「正保郷帳」では「大桐山中村」と記され、田方44石余、畑方40石余の計84石余となっています。

 「元禄郷帳」では当村は、大桐村と分けられ村高29石余となっていることから、正保年間(1644〜1647)から貞享年間(1684〜1687)に分村したと考えられます。

 当村から元比田浦へ1里(約4km)、8町(約860m)ほどで藩境(小浜藩・福井藩)になりましたから、福井藩は、ここに口留番所を設けました。

 明治11年(1878)の戸数14、人数82、明治22年(1889)鹿蒜村の大字、昭和26年(1951)今庄村、昭和30年(1955)から今庄町の大字となりました。

 しかし、昭和30年代(1956〜1965)に過疎化が進み、昭和40年(1965)の戸数3、人数5となり、この年の秋に全戸移住して無人となりました。


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3 峠の歴史


(1) 安元の争乱・白山神輿上洛で越えた峠道


 平安中期から越前馬場(白山中宮=平泉寺)、加賀馬場(白山本宮=白山寺)、美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を

 拠点とする白山信仰が盛んになり、三馬場での本家争いが激しくなりました。

 やがて信仰上の権威と寺勢を保つため、平泉寺は応徳元年(1084)比叡山

 延暦寺の末寺となり、続いて白山寺は久安3年(1147)延暦寺別院の資格を得ました。

 なかでも平安後期の加賀馬場は白山本宮など白山七社を中心に構成、手取川河谷の中・上流域一帯を

 主な勢力範囲にして白山寺長吏や本宮神主が有力農民を神人や衆徒にして統率、武装化しています。

 安元元年(1175)12月、後白河院の側近で権力を振るっていた藤原師光の子、師高が加賀守に任じられました。

 翌2年(1176)夏、師高の弟、師経が兄の代官として加賀へ下向し父の権勢を背景に国衙権力を回復しようと

 白山中宮八院の一つ鵜川(石川県小松市)の湧泉寺を検注(土地の立入調査)したため、

 寺側と武力衝突し、師経は湧泉寺に乱入して僧坊のすべてを焼き払ってしまいました。

 この師経のやり方に憤慨した白山三社八院の衆徒が師経の館を包囲しましたが、師経はすでに京へ逃げ帰ったあとでした。

 そこで白山側は師高・師経兄弟の処罰を求め本山延暦寺に訴えましたが、延暦寺は末寺の出来事と消極的態度をとったため、

 安元3年(1177)1月、白山七社の一つ佐羅宮の神輿を先頭に甲冑で身を固めた衆徒たちが北陸道を上って延暦寺へ向かいます。

 この時の様子が「源平盛衰記」に「・・2月15日かえるの堂(南越前町南今庄)、

 16日水津(敦賀市杉津)、17日敦賀の津、金ヶ崎の観音堂へ入る・・」と記され、山中峠を越えたことが分かります。

 その後、白山神輿は比叡山に到着後「速やかに師高、師経を召捕り給え」と口々に呪詛しながら下洛し都へ向かいました。

 この神輿に参集する者多く「御供の人数9千余人、在々所々に充ち満ちたり」と相当な数になったといいます。

 こうして神輿を振りかざした巨大な衆徒集団の強訴に屈した中央政府は、

 師高・師経兄弟を解任し尾張・備後へ流罪とし、白山側の執拗な訴えは延暦寺を巻き込んでかなえられました。



(2) 源平合戦で両軍が通過した峠道

 仁安元年(1166)から治承3年(1179)に至る約13年間は、平家一門の中心人物である平重盛、

 平教盛が越前国の事実上の知行国主となり、平資盛(重盛の子)や平通盛(教盛の子)らが越前国守として任命されていました。

 治承4年(1180)4月、以仁王から平家追討の令旨が発せられ、信濃国で木曽義仲が挙兵し、

 治承5年(養和元年・1181)6月、義仲軍は北陸道を通って上洛のため行動を開始しました。

 同年8月、越前国守の平通盛、その弟平教盛を大将とする平家軍は、義仲追討のため京都を出発し越前国に向かいました。

 同年9月1日、平家軍は越前国府(越前市)に到着、9月6日越前・加賀国境で両軍合戦となりました。

 しかし、平家に味方した白山平泉寺の長吏斉命らの寝返りによって平家軍は敗れ、

 平通盛は越前国府に留まって挽回を図ろうとしましたが、義仲軍の勢いに押され、

 山中峠を越えて水津(敦賀市杉津)へ退却、これを追撃してきた義仲軍に水津でも敗れて通盛は敦賀城へ退却しました。


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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
越前若狭峠のルーツ    上杉喜寿著
越前若狭歴史街道     上杉喜寿著
「福井県史」通史編1原始・古代 福井県
石川県の歴史散歩     山川出版社
敦賀市史     敦賀市編纂委員会編






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