3 峠の歴史
(1) 安元の争乱・白山神輿上洛で越えた峠道
平安中期から越前馬場(白山中宮=平泉寺)、加賀馬場(白山本宮=白山寺)、美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を
拠点とする白山信仰が盛んになり、三馬場での本家争いが激しくなりました。
やがて信仰上の権威と寺勢を保つため、平泉寺は応徳元年(1084)比叡山
延暦寺の末寺となり、続いて白山寺は久安3年(1147)延暦寺別院の資格を得ました。
なかでも平安後期の加賀馬場は白山本宮など白山七社を中心に構成、手取川河谷の中・上流域一帯を
主な勢力範囲にして白山寺長吏や本宮神主が有力農民を神人や衆徒にして統率、武装化しています。
安元元年(1175)12月、後白河院の側近で権力を振るっていた藤原師光の子、師高が加賀守に任じられました。
翌2年(1176)夏、師高の弟、師経が兄の代官として加賀へ下向し父の権勢を背景に国衙権力を回復しようと
白山中宮八院の一つ鵜川(石川県小松市)の湧泉寺を検注(土地の立入調査)したため、
寺側と武力衝突し、師経は湧泉寺に乱入して僧坊のすべてを焼き払ってしまいました。
この師経のやり方に憤慨した白山三社八院の衆徒が師経の館を包囲しましたが、師経はすでに京へ逃げ帰ったあとでした。
そこで白山側は師高・師経兄弟の処罰を求め本山延暦寺に訴えましたが、延暦寺は末寺の出来事と消極的態度をとったため、
安元3年(1177)1月、白山七社の一つ佐羅宮の神輿を先頭に甲冑で身を固めた衆徒たちが北陸道を上って延暦寺へ向かいます。
この時の様子が「源平盛衰記」に「・・2月15日かえるの堂(南越前町南今庄)、
16日水津(敦賀市杉津)、17日敦賀の津、金ヶ崎の観音堂へ入る・・」と記され、山中峠を越えたことが分かります。
その後、白山神輿は比叡山に到着後「速やかに師高、師経を召捕り給え」と口々に呪詛しながら下洛し都へ向かいました。
この神輿に参集する者多く「御供の人数9千余人、在々所々に充ち満ちたり」と相当な数になったといいます。
こうして神輿を振りかざした巨大な衆徒集団の強訴に屈した中央政府は、
師高・師経兄弟を解任し尾張・備後へ流罪とし、白山側の執拗な訴えは延暦寺を巻き込んでかなえられました。
(2) 源平合戦で両軍が通過した峠道
仁安元年(1166)から治承3年(1179)に至る約13年間は、平家一門の中心人物である平重盛、
平教盛が越前国の事実上の知行国主となり、平資盛(重盛の子)や平通盛(教盛の子)らが越前国守として任命されていました。
治承4年(1180)4月、以仁王から平家追討の令旨が発せられ、信濃国で木曽義仲が挙兵し、
治承5年(養和元年・1181)6月、義仲軍は北陸道を通って上洛のため行動を開始しました。
同年8月、越前国守の平通盛、その弟平教盛を大将とする平家軍は、義仲追討のため京都を出発し越前国に向かいました。
同年9月1日、平家軍は越前国府(越前市)に到着、9月6日越前・加賀国境で両軍合戦となりました。
しかし、平家に味方した白山平泉寺の長吏斉命らの寝返りによって平家軍は敗れ、
平通盛は越前国府に留まって挽回を図ろうとしましたが、義仲軍の勢いに押され、
山中峠を越えて水津(敦賀市杉津)へ退却、これを追撃してきた義仲軍に水津でも敗れて通盛は敦賀城へ退却しました。
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