このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




笙 の 川



池原ヶ池笙の川下流域


1 笙の川(敦賀市)

 敦賀市東方の山中に位置する池原ヶ池を源に南流し、のち西、北に転じ、敦賀市街で日本海に注ぐ流程約20.3㎞の二級河川です。

2 川名の由来

 明治初期までは黒河川合流点から下流を「庄ノ川」と呼んでいましたが、滋賀県から福井県に編入後、上流の疋田川を合わせ「笙ノ川」と呼ぶようになったようです。

 笙ノ川の名は、中流付近に位置する絹掛山の対岸に自生する細い竹が「笙」の笛の材料になったからだともいわます。

 しかし、字は最初「庄」の字が使われており、「郡誌」には滋賀県編入後、「笙」の字が使われるようになったとありますが詳細は不明です。



3 主な支流

 中流の麻生口で奥麻生川、疋田で五位川を合わせ、道ノ口で平野に出ます。

 複合扇状地をつくる黒河川と扇端の和久野町で合流し、さらに昭和町で木の芽川を入れます。

 敦賀市街を流れる下流域は、水害防止のため昭和3年(1928)、約500メートル西に新河道を開きました。

 旧津内町の川中・川西を分けた旧河道は、運河として利用されましたが、近年、下流域の一部を除いて埋め立てられました。

 敦賀は、日本海に面した良港に恵まれ、昔から敦賀津として海運が盛んでしたが、河川は急流のため舟運に恵まれませんでした。

 ただ、文化13年(1813)に疋田から川幅9尺で舟川が開削され、気比神宮の御手洗川に至り、児屋ノ川へ通じましたが、天保5年(1843)に廃止されました。




4 流域の主な街道

 本流の谷は刀根越えで柳ヶ瀬へ、支流五位川の谷は七里半越えで湖北・海津へ、奥麻生川、新道川の谷は、塩津道など湖北を結ぶ重要な交通路でした。

 昔の北陸道は琵琶湖畔の海津から北へ延び、山中峠を越えて越前に入り、その後、五位川べりを疋田から笙の川に沿って下り、敦賀湊へ向かいました。

 「越」や「陸奥」から日本海を舟で運ばれた米や海産物は、敦賀湊に陸揚げされ、馬借が各駅間を荷継し、湖北・海津へと運び、海津からは舟で琵琶湖上を奈良・京都へと運ばれました。

 これを上り荷といい、海津では敦賀へ運ばれる下り荷を受け、街道筋は上り、下りの貨客で賑わいました。

 昔から敦賀湊と琵琶湖間を川舟で大量の貨客が輸送できたなら、便利で利益が上がるだろうと多くの人が考えました。


疋田舟川疋田舟川


5 まぼろしの運河計画

 敦賀湊と琵琶湖を運河で結ぼうという計画は、古くから何度も計画されましたが実現されませんでした。その歴史を振り返ってみましょう。

(1) 平安末期

 越前国司、平 重盛は深坂峠を開削しようとしましたが、巨石に阻まれ工事を中断したという伝承があり、今も深坂峠の近江側山麓に堀止め地蔵が祀られています。

(2) 戦国時代

 敦賀領主となった蜂谷頼隆、大谷吉継らによって、敦賀・琵琶湖間の運河計画が練られたようですが、それを裏付ける史料はありません。

(3) 江戸時代

 この時代、何度も運河計画は持ちあがりましたが、利害関係が複雑に絡み、実現できませんでした。

ア)寛文9年(1669)

 京都商人田中四郎左衛門によって計画されました。新道野を開削し、塩津ー沓掛ー新道野ー疋田ー敦賀の間を水路で結ぼうと考えました。しかし、この計画は付近の村々などの反対にあい実現されませんでした。

イ)元禄9年(1696)

 田中屋四郎左衛門ら6人によって、深坂を掘り抜き湖水の水を疋田川に落とし、川舟で荷物を運ぼうと計画されました。しかし、これも敦賀郡内19ヵ村、海津の反対によって中止されました。

ウ)享保5年(1720)

 幸阿弥ら6人が塩津と敦賀間五里(約20㌔㍍)を水深2尺(約60㌢)の水路を通し、舟が難しい区間は陸路で運び、

 湖南の瀬田川を改修して大阪へ直接輸送しようとする大計画でした。しかし、これは幕府から許可が出ませんでした。

エ)天明5年(1785)

 幕府役人によって運河計画の実地見分が行われましたが、具体化されませんでした。

オ)文化12年(1812)

 幕府役人と小浜藩役人が町奉行、代官を同行し、山中村から下の川筋を実地検分し、翌年3月、荷物を運ぶための川舟を通す水路、舟川の開削が始められました。

 この舟川は疋田から市橋を経て気比神宮前の御手洗川に至り、そこから児屋ノ川へ繋げたもので、舟川の幅は9尺(約2.7㍍)あり、疋田川と舟川の交差するところには算桁を架けました。

 工事は同年7月に完成し、疋田から山中を経て湖北の大浦へ牛車で荷物が運ばれました。

 しかし、この舟川は20年近く利用されましたが、天保5年(1834)馬借座の訴訟によって廃止されました。

カ)安政2年(1855)

 以前と同じ川幅で、長さ3間(約5.4㍍)、幅7尺(約2.1㍍)の川舟を行き来できるようにしました。

 この舟川のルートは疋田から敦賀町近くまでは、前回と同じルートでしたが、敦賀町の近く土橋で笙ノ川に出て、今橋辺りに荷物取扱所を置きました。

 しかし、疋田から深坂峠を越えて大浦に至る道が難路だったため、次第に利用が減り、舟川も寂れていきました。

慶応2年(1866)の洪水で舟川が破壊され、その後、修復されることはありませんでした。

キ)慶応3年(1867)

 幕府は敦賀から琵琶湖に至る運河の開削を加賀藩に命じました。この頃、幕府と長州藩が対立し、日本近海に外国船が頻繁に出没するようになりました。

 このため京都への食料輸送が危ぶまれたため、それを確保するために運河を開削しようというものでした。

 しかし、この計画も明治維新によって実現されず、その後、何度か運河開削の計画がありましたが、実現できないまま今日に至っています。


主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県     角川書店
河川のルーツ           上杉喜寿著
敦賀の歴史        敦賀市史編纂委員会
福井県大百科辞典         福井新聞社

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください