伊勢新九郎盛時(従来は長氏と言われていた)。 別名としては、伊勢宗瑞、長氏、氏茂、新九郎等がある。
北条性二代氏綱の時であるので、生前に北条早雲と名乗ったことはなかった。
従来は、一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型と言われていたが、室町幕府の政所執事を務めていた伊勢氏の一族と考えられている。伊勢氏の一族で備中に居住した支流で、備中国荏原庄の高越城で生まれたとい言われています。その後京に出て将軍足利義政の弟の足利義視に仕えたと言われている。
伊勢新九郎盛時(以下早雲)と駿河の関係は、早雲の妹の北川殿が、駿河の守護今川義忠結婚し、嫡男龍王丸を生んだことに始まる。
文明8年に今川義忠は、遠江の塩売坂の戦いで討ち死にした。嫡男の龍王丸は幼少であったため、義忠の従兄弟である小鹿範満との家督争いが生じた。北川殿の兄である伊勢新九郎盛時は駿河へ下り、家督争いの調停を行い、龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすることで決着した。しかしながら、いつまでたっても家督を返さない小鹿範満に対して兵を起こし、駿河館を襲撃して小鹿範満を倒した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となった。 早雲は伊豆国との国境に近い興国寺城の城主となった。 興国寺城の早雲は、伊豆の堀越公方の子で堀越公方を殺して簒奪した、足利茶々丸を滅ぼし、伊豆の支配権を握った。その後関東に目を向けるようになった。
明応4年9月、小田原の大森藤頼を討ち小田原城を落した。「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」、という手紙を大森藤頼の元に届け、大森藤頼はこれを許した。早雲は兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。小田原城は大混乱になり、大森藤頼は命からがら真田城に逃げ出して、早雲は小田原城を手に入れたという。 |