このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
一茶ゆかりの地
真間山弘法寺
〜一茶の句碑〜〜
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉
千葉県市川市に
真間山弘法寺
がある。
石段を登ると、仁王門がある。
仁王門の右に小林一茶の句碑があった。
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉
安永6年(1777年)春、一茶は15歳で江戸に奉公に出る。
天明2年(1782年)、一茶20歳の頃には馬橋(現・松戸市)の油商を営む俳人大川立砂の許に奉公しながら俳諧の道に入った。
寛政10年(1798年)10月、馬橋の
大川立砂
とともに真間の手児奈霊堂から弘法寺に紅葉狩りにやって来た。
夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉
立砂
紅葉ゝや爺はへし折子はひろふ
一茶
翌寛政11年(1799年)、立砂没す。
文化8年(1811年)、一茶は立砂の13回忌の日に訪ねる。
されば立砂翁と今は此世をだてたれど、我魂の彼土
(かのど)
にゆきゝしてしりけるにや、又仏の呼よせ給ふにや十三廻忌といふけふ、はからずも巡り来ぬることのふしぎさに、そゞろに袖をしぼりぬ。
『我春集』
何として忘ませうぞかれ芒
(すすき)
碑の句は紅葉狩りのことを思い起こして読んだもの。
寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也。
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉
この時の句に次のようなものがある。
生残り生残りたる寒さかな
はつ雪やとても作らば立砂仏
また、真間寺で詠んだ
大島蓼太
の句もある。
真間寺にて
真間の井や道を千尋にしのぶ草
大島蓼太は信濃生。本姓は吉川、通称は平助、名は陽喬、号に雪中庵・里席・宜来等。二世雪中庵桜井吏登に入門し、のち三世となる。三千余人の門人を有したという。天明7年(1787年)、69才で歿。
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