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一茶ゆかりの地

真間山弘法寺〜一茶の句碑〜〜



真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

千葉県市川市に 真間山弘法寺 がある。


石段を登ると、仁王門がある。


仁王門の右に小林一茶の句碑があった。


真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

 安永6年(1777年)春、一茶は15歳で江戸に奉公に出る。

 天明2年(1782年)、一茶20歳の頃には馬橋(現・松戸市)の油商を営む俳人大川立砂の許に奉公しながら俳諧の道に入った。

 寛政10年(1798年)10月、馬橋の 大川立砂 とともに真間の手児奈霊堂から弘法寺に紅葉狩りにやって来た。

夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉
立砂
紅葉ゝや爺はへし折子はひろふ
一茶

翌寛政11年(1799年)、立砂没す。

文化8年(1811年)、一茶は立砂の13回忌の日に訪ねる。

 されば立砂翁と今は此世をだてたれど、我魂の彼土(かのど)にゆきゝしてしりけるにや、又仏の呼よせ給ふにや十三廻忌といふけふ、はからずも巡り来ぬることのふしぎさに、そゞろに袖をしぼりぬ。

『我春集』

何として忘ませうぞかれ芒(すすき)

碑の句は紅葉狩りのことを思い起こして読んだもの。

寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也。

真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

この時の句に次のようなものがある。

生残り生残りたる寒さかな

はつ雪やとても作らば立砂仏

また、真間寺で詠んだ 大島蓼太 の句もある。

真間寺にて

真間の井や道を千尋にしのぶ草

 大島蓼太は信濃生。本姓は吉川、通称は平助、名は陽喬、号に雪中庵・里席・宜来等。二世雪中庵桜井吏登に入門し、のち三世となる。三千余人の門人を有したという。天明7年(1787年)、69才で歿。

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