このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

一茶ゆかりの地


北国街道野尻宿

信濃町公民館野尻湖支館 の裏の通りが旧北国街道である。


歴史の道北国街道


野尻宿本陣跡

寛政3年(1791年)4月30日、鶴田卓池は野尻宿に泊まっている。

   是ヨリ奥至テ山深シ人ノカヨハサル峯々アリト云

   五り此間道さだかならず

野尻   宿坪井屋安兵衛

『奥羽記行』 (自筆稿本)

信濃町教育委員会の説明が書いてあった。

歴史の旅北国街道野尻宿


 北国街道は中山道 追分宿 で分岐して越後の出雲崎宿にいたる街道で、野尻宿は信越国境に位置する重要な宿場でした。佐渡の金銀を江戸へ運ぶ輸送路にあたり、安養寺境内には御金蔵がありました。 柏原 ・古間・野尻の3宿の村役人が御金荷の警護を務め、牟礼宿まで運びました。

 1781年(天明元年)ころの野尻宿には、公用通行に人馬を提供する76軒の伝馬屋敷があり、両側に土手が築かれていました。宿場の中心部は間口の広い屋敷(馬役)がならび、10軒余の旅籠屋がありました。

 また、湖光・関之・魯堂など俳句をたしなむ者が多く、一茶はしばしば野尻宿をおとずれました。

 1823年(文政6年)には、一茶門人によって 芭蕉句碑 が建てられました。

そば所(どこ)と人はいふ也赤蜻蛉

 文化4年(1807年)、8月19日、一茶が野尻宿の 巴水亭 を訪れた時に詠んだ句。

十九日 晴 夜雨 野尻巴水亭ニ入

   そば所と人はいふ也赤蜻蛉

『連句稿裏書』(文化4年8月)

 巴水亭は湖光の別号。屋号は桂屋。柏原の桂屋の親戚。野尻宿の脇本陣をつとめた。

 文化6年(1809年)5月8日、一茶は柏原に帰郷。7月17日、野尻宿 に入る。

十七日 晴 野尻ニ入 福島勝法寺法談

   日ぐらしや急に明るき湖の方

『文化五・六年句日記』

国道18号(北国街道)沿いに 句碑 がある。

 文化7年(1810年)5月18日、一茶は魯堂亭に泊まっている。

一八日 晴 又一里越して野尻魯堂亭に泊。

『七番日記』(文化7年5月)

 文化9年(1812年)6月27日、一茶は野尻に入り、 関之 に泊まる。関之は一茶の門人池田十郎平。翌28日、石田に入る。石田は一茶の門人石田津右衛門。俳号は湖光。

[廿]七 陰 夜雨 野尻ニ入 関之泊

[廿]八 雨 石田ニ入

『七番日記』(文化9年6月)

 文化11年(1814年)3月24日、一茶は野尻に遊び、関之に泊まる。

廿四 晴 野尻遊 安養寺有法 中講 関之ニ泊

『七番日記』(文化11年3月)

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