このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2014年
〜
名古屋城
〜本丸御殿〜
名古屋市中区本丸に名古屋城がある。
特別史跡
名古屋城
名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代城主は、江戸幕府を開いた
徳川家康
の第九男義直です。慶長14年(1609年)家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。
慶長20年(1615年)に本丸御殿、元和3年(1617年)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管になり、名古屋鎮台司令部や兵舎が置かれましたが、明治26年(1893年)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930年)12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932年)には名古屋城全域が特別史跡に指定されました。
昭和20年(1945年)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や御本殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、空襲の直前に取り外されていた本丸御殿障壁画1047面が、戦後重要文化財に指定された。
昭和34年(1959年)、天守閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
平成21年(2009年)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013年)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も、平成30年(2018年)の全体完成をめざし工事が進められています。
那古屋城跡
大永年間(1521〜28)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いていた城で、一名「柳之丸」ともいわれ、一族の今川氏豊を城主とした。
織田信秀は天文7年(1538年)この城を奪い、ここに居するが、同11年(1542年)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以後、嫡子
織田信長
が居城したとされている。
弘治元年(1555年)織田信長が清須に移った後は、一族の織田信光がしばらくの間居城していたが、やがて廃城となった。
名古屋市教育委員会
清正公石曳きの像
清正の石曳
天守の石垣普請は、
加藤清正
に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭を取ったと伝えられている。木像は、その様子を模したもの。
重要文化財
東南隅櫓
古名は辰巳櫓。かつては西側と北側に多門櫓が続いていた。昭和27年(1952年)の解体修理により、木曽の木材が用いられており、宝永4年(1707年)に修理され、明治になり江戸城の鯱が取り付けられたことなどが明らかになった。
名古屋城本丸御殿
名古屋城本丸御殿とは
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615年)に建てられました。寛永11年(1634年)には将軍のお成御殿として上洛殿が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945年)の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009年)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月には入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始しました。
玄関一之間の障壁画
名古屋城天守閣
日本100名城
のひとつである。
昭和10年(1935年)11月1日、
与謝野晶子
は名古屋城を訪れている。
ならびなき名古屋の城の本丸の大手の櫻色づきにけり
青空の千尋の海に跳るなり名古屋の城の金色の魚
『白桜集』
(尾参詠草)
昭14年(1939年)10月、
斎藤茂吉
は秋雨の名護屋城を訪れている。
名古屋
名護屋城の石垣に降る秋の雨けふは西南の方より降れり
天守閣の門内の石に鐫
(え)
りつけし目印の象
(かた)
も空しとおまはず
『のぼり路』
天守閣からの眺望
右に見えるのがミッドランドスクエア。
「私の旅日記」
〜
2014年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください