このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

内々神社〜横井也有〜
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春日井市内津町の県道508号内津勝川線(下街道)沿いに内々神社がある。

内々神社と日本武尊

 景行天皇の御代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は 熱田の宮 で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮簀姫命と婚約され、東国の平定に出られました。

 平定が終わっての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にさしかかりました。その時大へんなことが起こりました。

 東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹が早馬で知らせて来ました。それを聞かれた尊は「あの元気な稲種が……」と絶句し、しばらくして「ああ現哉(うつつかな)々々」となげかれ、その霊を祭られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより1キロメートル余り入った奥の院だったと思われます。

 西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子を登ると、洞窟の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。

春日井市教育委員会

内々神社社殿


延喜式内社 である。

 内々神社は、旧県社であり、「延喜式神名帳」(法典927)に記載されており、現在の社殿は江戸時代後期の文化年間(1804〜1818)に造られました。

 社殿は、本殿と拝殿が平行に並び、その間を幣殿という別棟でつなぐ「権現造り」と呼ばれる構造で、本殿は前面に庇をもつ三間社流れ造り、拝殿は正面中央に向背をもつ入母屋造りとなっています。

庭園


 庭園は、南北朝時代の名僧・夢窓国師(1275〜1351)の作と伝えられ、廻遊式林泉型という形式です。社殿の裏側にあって少しの平地と急斜面を利用して作られており、神社裏山の自然の岩が巧に取り入れられ、その下には丸池が掘られています。

庭園の左手に横井也有の句碑があった。


這ひのほる蔦もなやむや天狗岩

安永2年(1773年)8月18日から28日まで、 横井也有 は内津に遊んだ。

 此日妙見宮に詣す。舎(いへ)よりいとちかし。猶奥の院へ参らむといふに、こよなうさかしき道なめり、老の歩の及ぶまじければ、只やね、と人々いふ。されど阮籍が窮途にこそとゞまらめと笑ひて登る左右大きなる杉どもの枝さしかして、日の影もゝれず。細き道の苔なめらかに石高し。右の方に天狗岩といへる世にしらず大きなる巌そばだてり。只一の山とこそ見しらるれ。かゝる怪しき岩地の国にもをさをさなしとぞ。

這ひのほる蔦もなやむや天狗岩

『鶉衣』(内津草)

妙見寺は内々神社の別当寺。

 すみれ塚は、庭園を右手に折れて山腹の台地に登ったところが「すみれ草」と呼ばれ、内津の俳人・長谷川三止により建てた。6基の句碑があります。その中に、芭蕉の徳をしたって「山路来て何やらゆかしすみれ草」と刻まれた句碑があります。

庭園を右手に折れて小道を登る。

鶉衣「内津草」の小道

 安永2年(1773年)8月、横井也有は72歳の高齢であった。内津の俳人長谷川三止(本名善正、艸人とも号す)が、鹿の鳴き声を聞きにと、しきりに来遊を勧めたので、ふと山里の景色が見たくなって、約10日間の旅をした。

 前津(名古屋)の半掃庵を8月18日午前2時過ぎに出て、大曽根を経て勝川(庄内川)を駕にのって渡り、下街道(善光寺街道)を内津へ向かって旅をした。

 その道中記が「内津草」で、也有の俳文集「鶉衣」の中に記されている。

 也有が道中で詠んだ句を、この小道を登りながらしのぶことにしよう。

(勝川、夜明け)


麓からしらむ夜あけや蕎麦畑

(鳥居松、駕から出て食事)


夜と晝の目は色かへて鳥居松

(大泉寺、徒歩から又駕へ)


山がらの出て又籠にもどりけり

(尻冷やし地蔵、狂歌)


尻ひやし地蔵はこゝにいつまでも

   しりやけ猿のこゝろではなし

(坂下、明知、西尾)


駕たてるところどころや蓼の花

(内津)


名もにたり蔦の細道うつゝ山

春日井市教育委員会

芭蕉翁舊跡すみれ塚


すみれ塚

 「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句碑は、名古屋の俳人横井也有の筆で、也有と親しかった内津の俳人長谷川三止(医業名を善正、号を艸人ともいった)が建てたものである。しかし、この句は芭蕉が貞享2年(1685年)、この句は芭蕉が京都から大津に越える逢坂山あたりで吟じたものといわれる。この句碑が内津に建てられたのは、芭蕉の句がここの景観にふさわしかったからであろう。也有は安永2年(1773年)この地に遊び、その紀行文「内津草」は名著『鶉衣』に収められて有名である。

 このすみれ塚に建てられた句碑をながめてみよう。




   鹿啼や山にうつふく人心
   也有翁


   明和己丑秋九月誌
   三止




    山路来て何やらゆかしすみれ草
   芭蕉翁 也有書


   幽耕主建之




   曇日も照日もぬれて若葉哉      明之坊


   安永戊戌歳 知音 半掃庵門下三止建之




   芝橋や下行風に雪の音   桂坊


   天明五乙巳年 依遺言
             知己当山下醒月堂霜親人建之 東濃 松笛楼




   人の親の焼野のきゝすうちにけり    暁台


   享和改元仲秋   為知音建之



正面
    常住往生
    平生養生
   けふしらぬ身に朝皃の種拾ひけり

右面
    菫塚捻香
   其魂もまねかはこゝにすみれ塚
   也有
   今はそれもゆかしき影や菫塚
   暁台
   菫塚幾世の霜に鳥の跡
   艸人

左面
   法橋一閑艸人

裏面
   文化七庚午仲冬

右面の写真である。

もう1基也有の句碑があった。


茶は同じ香を手まくらの右左

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