このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

与謝野晶子の旅



南荻窪中央公園

 JR中央線荻窪駅南口から商店街を行き、善福寺川を越えると「おしかわ公園」という小さな公園がある。


 「おしかわ公園」に「与謝野 晶子 鉄幹 ゆかりの地散策の道」案内板があった。


 与謝野晶子は明治11年(西暦1878年)12月7日生まれ、明治から昭和にかけて活躍した歌人、作家、思想家である。大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女としてむ誕生、女学校の頃から日本文学に親しみ、歌を詠むようになる。 明治34年(西暦1901年)に東京に移り、歌集『みだれ髪』を刊行、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。同年機関誌『明星』を発行する新詩社の創立者であり、歌人でもある。 与謝野鉄幹君と結婚。明治37年(西暦1904年)に「死にたまふことなかれ」を発表。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。関東大震災後、昭和2年(西暦1927年)に晶子・鉄幹はこの地に転居、遙青書屋・采花荘と名付けられた2棟の家を構え、歌会を開いたり、各地へ旅行し歌を詠み講演をするなど、武蔵野の地を永住の居とし晩年を過ごした。昭和10年(西暦1935年)3月26日鉄幹62歳で没後の七周忌のあと、昭和17年(西暦1942年)5月29日に64歳の生涯を閉じた。残した歌は5万首にも及ぶ。

荻窪 川南共栄会 商店街

 荻窪2丁目交差点から南荻窪中央公園に向かう途中の「小泉ふとん店」にも同じ内容の案内板があった。

南荻窪中央公園


与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧居跡

 現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫妻が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。

 関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、当時井荻いわれたここに土地を得て、昭和2年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遥青書屋と采花荘と名づけられた2棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。

 私は独りで家から二町離れた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香が交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。

「街頭に送る」 昭和6年 晶子

大いなる爐の間のごとく武蔵野の
      冬あたたかに暮るる一日         寛

井荻村一人歩みて蓬生に
      断たるる路の夕月夜かな         晶子

 また、この家で夫妻は歌会を催したり『日本古典全集』の編纂や歌誌『冬柏』の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。

 昭和10年3月26日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら62年の生涯を閉じました。

 寛亡きあと、晶子は11人の子女の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の『新々訳 源氏物語』の完成(昭和14年)に心血を注ぎました。

 昭和17年5月29日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に64年の生涯を終えました。

  平成6年3月

杉並区教育委員会

 遥青書屋と采花荘の間にあった晶子の書斎「冬柏亭」が京都の 鞍馬山 に移築されている。

「冬柏亭」


与謝野晶子の旅 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください