このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

与謝野晶子ゆかりの地



赤城山

赤城山に大沼がある。


大沼


 明治37年(1904年)5月、 高村光太郎 は初めて赤城を訪れた。同年7月にも再訪し、夏を通して50余日間滞在している。

 同年8月2日、光太郎の案内で新詩社一行が赤城を訪れ、猪谷旅館に4泊した。

 明治38年(1904年)5月3日、与謝野晶子 は夫・鉄幹と共に豪雨の中を幼い2人の子を連れて赤城山に登った。

赤城山の裾野三里が間小止もなく、投槍の如く横に降りし白き強雨の凄じさ。男づれ五人、女は子守ととわれと三人、幾筋の路の黒き大蛇の群と覚ゆる俄の濁流に膝を没し、幾度か底の石塊を踏み逸してよろめき乍ら吹き折られし傘を杖に進めば、子守等は倒れて流さるるもあり、良人は三歳になる長男を、われは二男を細紐にて確と負ひぬ。 流さるる子守をあれあれと叫べど、三間先に隔たりし男づれは雨に曇りて姿も見えず、声も届かぬに、良人の追ひ下りて子守を救ひ、「手を取り合へ、離れて進むな、あと一里ぞ、もう大丈夫なり」など励ませば、背なる長男の、濡れ通りたる合羽の下より「もう大丈夫、もう大丈夫」と元気なき声に言ひ続けたる、今思ひ出づるにも目の湿みぬ。

「夏の旅」

沼尻の青木旅館に泊まったようである。

 昭和3年(1934年)、前橋から箕輪まで22キロの道路が開通し、乗合自動車が走行した。

 昭和4年(1929年)10月16日、高村光太郎は友人を誘って赤城へ。箕輪までバスで行き、そこから歩いて猪谷旅館に4泊した。

 若い私たちはボートで志賀直哉の「焚火」の島に渡った。ひどいガスが、いつの間にかいちめんによどんで、高村さんの吹くサイレンだけがするどく、ガスをひきさいてひびいてきた。

 夜は酒とともに盛りあがった。高田と私の議論、岡本が足をすべらして二階からの階段をころがりおちた。しまいには宿屋の酒がなくなって隣の 赤城神社 のオミキをねだってきては囲炉裏ばたでしばらく飲んだ。

草野心平『わが青春の記』

 昭和9年(1925年)7月11日、与謝野晶子は再び赤城山に登り、青木旅館に2泊している。

 昭和41年(1966年)、県営「赤城南面有料道路(1995年に無料化)」開通。

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