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私の旅日記2009年

最勝院〜五重塔〜
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弘前市銅屋町に最勝院という寺がある。

仁王門


最勝院由緒、沿革

 最勝院(以下当院)は具(つぶさ)には金剛山光明寺最勝院と号す。この名称の起源は、『金光明最勝王経』という仏教教典に由来し、五穀豊穣、国家安泰等の深い願いが込められている。総本山は京都市東山の智積院、宗派は真言宗智山派の密教寺院である。本尊は金剛界大日如来、秘仏として猫突(ねこつき)不動明王、牛頭天王、聖天(歓喜天)、五智如来等を祀る。

 天文元年(1532年)に高僧弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基した。慶長14年(1609年)二代津軽藩主信枚(のぶひら)が高岡の新城(現在の 弘前城 )を築いた折、当院第六世日雄が地鎮の法式(ほっしき)を執行し、慶長16年(1611年)新城の鬼門に当たる田町へ移転し弘前八幡宮別当となり、そこに十二ヶ寺の塔頭寺院を擁していた。また、津軽藩永世祈願所に定められ、寺禄三百石を賜り、手厚い保護を受けた。

 幕府からの預人慶光院と、江戸寛永寺開山の天海は、相談の上寛永3年(1626年)に京都五山、鎌倉五山にならって当地における津軽真言五山の制度を定めたと伝えられる。最勝院、百澤寺(現岩木山神社)、國上寺(碇ヶ関村)、橋雲寺(岩木町)、久渡寺(旧小沢村)がそれである。当院はその筆頭に位置し、領内総寺社を統轄する総録に定められ、更には修験、座頭、巫女等を支配し、社人頭を通じて領内の社人をも支配した。当院には、領内壱千百三十三社の明細を記した重要文化財『神社微細社司由緒調書上帳』が現存し、当時の権勢の程を窺わせる。

 明治3年(1870年)神仏分離令により支配下の多くの寺院を合併して田町より当地へ移転した。その頃まで当地には、大圓寺という真言宗の寺院があったが、その大圓寺は大鰐町蔵館の高伯寺と合併しそこへ寺格を移転した。当院は五重塔や本堂、諸堂、境内地など旧大圓寺の総てを受け継ぎ、寺院としての発展の中で境内整備を為し現在に至っている。

 当院の境内では、弘前市教育委員会の発掘調査により縄文時代後期の土器類や住居跡が多数出土している。これにより往古よりこの地に人が住み、また信仰の為の霊地として崇拝を受けていたと考えられる。正面の仁王門の金剛力士像は岩木山旧百澤寺の山門に安置されていたものと伝えられる。現在の当院護摩堂は旧大圓寺の本堂であり、明和9年(1772年)に奉納された本尊牛頭天王尊がそのままに当院護摩堂に奉安されており、旧暦6月13日はこの牛頭天王尊のご縁日(例大祭)として善男善女が多数参拝し、大変なにぎわいが藩政時代より連綿と続けられている。また、正月の元朝祈願参拝者数は、弘前市最大の規模となっている。

真言宗智山派  金剛山最勝院

本堂


 明治40年(1907年)5月29日、河東碧梧桐は大円寺の境内で五重の塔を見ている。

大円寺の境内に五重の塔がある。朱塗の醜からぬ搭で、形も浅草寺のに似て立派である。東北には見馴れぬので珍らしい思いをするが、この塔も昔は敵の物見のために建立されたものであるという。


五重塔


  重要文化財
 最勝院五重塔 一基 附 旧伏鉢・露盤

 縁起によれば、藩祖津軽為信による津軽統一の際に戦死した敵味方を供養するため、三代藩主信義が明暦2年(1656年)に着工したが中断、寛文5年(1665年)四代信政により再開され、7年に完成したといわれるが、平成4年から6年の全面解体で寛文四年の銘が初重の部材で発見され、このころの建設開始と推定されている。また、当初の露盤や伏鉢などの相輪部分は、鋳物師として有名な渡辺近江大掾源正次の作と伝えられている。

 塔の総高は約31.2メートルを測り、総高に対して相輪部分が長く、更に五重目の柱間が初重の約半分となっているなど、均整のとれた美しい姿として有名である。また塔の心柱は継ぎ目のない一本の杉材であり、二重目で止まるほか、組物に和様三手先(みてさき)を置き、初重の蟇股(かえるまた)に十二支の文字が書かれ、各層の窓の形が異なるなど、細部にわたり優れた意匠の建造物である。

管理者 最 勝 院
弘前市教育委員会

重要文化財に指定されている日本最北の五重塔である。

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