このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

太田道灌ゆかりの地

「山吹の里」の碑〜面影橋〜

都電荒川線「面影橋」で降りると、面影橋がある。


面影橋の由来

 目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。

 橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げたときにうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。

 なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。

面影橋を渡ると、豊島区。

「山吹の里」の碑があった。


山吹の里の碑

 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は「山吹の里」といわれています。 これは、太田道灌 が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。

 「山吹の里」の場所については、ここ以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県 越生町 、などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988年)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。

 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1636年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。

豊島区教育委員会

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