このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

北原白秋ゆかりの地


申孝園(国柱会)

東京都江戸川区一之江6丁目に 申孝園(国柱会) がある。


宗教法人国柱会


 明治17年(1884年)、智学は在家仏教の教団立正安国会を創立。明治42年(1909年)7月、三保最勝閣地鎮式、翌年10月8、9日落成式。

 大正3年(1914年)、智学は新たに国柱会を組織。

 大正10年(1921年)、北原白秋は佐藤菊子と結婚、白秋3度目の結婚である。菊子夫人は、白秋と結婚前、田中智学の側近に仕えた人で、生涯国柱会の会員であった。翌年長男隆太郎が誕生。

 大正13年(1924年)正月5日、白秋は田中智学の懇招に応じて、三保の最勝閣に赴く。

 不二大観 三保遊行抄

      小序
      大正十三年正月五日、智学田中先生の懇招に応じて、伊
      豆修善寺を発して三保の最勝閣に赴く。この行父母を奉
      じ、妻子と伴なり。淹留五日、或は晴れ、或は雨。而も
      不二の観望第一なる有徳の間の朝夕は我をして感懐禁ぜ
      ざらしむ。羽衣の松竜華寺の探勝ともにまた清閑極りな
      し。乃ち成るところの長歌一首ならびに短歌百七十二首
      を献げて些か先生の慈情に酬いむとす。記して小序とな
      す。

   不二を仰ぐ

      沼津より江尻にいたる途上、汽車の窓より 五日

天つ辺にただに凌(しぬ)げば不二が嶺のいただき白う冴えにけるかも

   最勝閣に着く

      清水港より渡船にて渡る 五日午後

大船の心たのめて三保が崎君が御殿(みとの)に参ゐ出来にけり

   最勝閣にまうでて詠める長歌竝びに反歌

風早(かざはや)の三保の浦廻(うらみ)、貝島のこの高殿は、天なるや不二をふりさけ、清見潟満干の潮に、朝日さし夕日てりそふ。この殿にまうでて見れば、あなかしこ小松叢生ひ、辺にい寄る玉藻いろくづ、たまたまは棹さす小舟、海苔粗朶(そだ)の間(あひ)にかくろふ。この殿や国の鎮めと、御仏の法(のり)の護りと、言よさし築かしし殿、星月夜夜ぞらのくまも、御庇のいや高だかに、鐸(すず)の音のいやさやさやに、いなのめの光ちかしと、横雲のさわたる雲を、ほのぼのと聳えしづもる。しづけくも畏(かしこ)き相(すがた)、畏くも安けき此の土、この殿の青き甍(いらか)のあやに清(すが)しも。

    反 歌

この殿はうべもかしこししろたへの不二の高嶺をまともにぞ見る

『海阪(うなざか)

大正14年(1925年)、長女篁子が生まれた。

昭和3年(1928年)4月、田中智学により申孝園造営。

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