このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷



『江東歳時記』を歩く

越中島商船大学で

白南風やうつうつとして明治丸

白南風(しらはえ)とは、梅雨明けの頃に南から吹く風。「しろはえ」とも言う。

 相生橋のポプラ並木がいっせいに葉裏をかえしてなびき、東京港のあまり爽快でもない潮の香がする。

相生橋の下に中の島公園がある。


 中の島公園は隅田川の水質汚濁などにより訪れる人も少なくなり、昭和48年(1973年)にいったん閉鎖された。「あまり爽快でもない潮の香がする」わけである。

中の島公園から見た隅田川


中央にキャナルワーフタワーズ、その左に豊洲水門が見える。

キャナルワーフタワーズは2000年11月竣工。

石田波郷が訪れた頃には考えられなない。

 「明治天皇と日露大戦争」が明治生まれの男たちの涙をしぼって、明治ブームの起こりそうな折から、越中島の商船大学ドックの繋留された明治丸は、老朽の姿おおうべくもなく、梅雨間のうす日にさらされていた。

 石田波郷が商船大学を訪れたのは昭和32年。「明治天皇と日露大戦争」は、その年に公開された。

明治丸


 英国グラスゴーで造船された1,028トン三帆檣のスマートな姿の明治丸は明治9年7月東北御巡幸中の明治大帝を迎えるため、供奉船テーポール号、高雄、護衛船春日、清輝を従えて青森に回航、7月20日横浜に帰ってきた。海の記念日はこの日を記念したものだ。その後灯台補給船を経てここの練習船となった。

 海の記念日が国民の祝日になったのは平成7年だが、海の記念日にそのような由来があったとは知らなかった。

 進駐軍には何の用もなさそうな明治丸も接収され、大帝の御座室も御紋章もすべてペンキでぬりたくり、船内のホールで兵隊が踊り狂った。マッカーサー夫人も踊りにきたことがあるそうだ。維持手入れをしないため、昭和26年7月沈没と共に接収解除された。

 浮上修理を施して、現在も繋留練習船だが帆柱などもう危険でのぼれない。明治の1つのモニュメントに過ぎなくなってしまった。もはや海を走ることのない明治丸は、明治への郷愁をもたぬ私にも潮風に吹かれてうつうつとたのしまぬ風情に見えた。

『江東歳時記』(越中島商船大学で)

 昭和53年(1978年)5月、明治丸は船として初めて国の 重要文化財 に指定された。

 平成15年(2003年)10月1日、東京商船大学は東京水産大学と統合し東京海洋大学になった。

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