このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
石田波郷
『江東歳時記』を歩く
千住日之出町清亮寺で
解剖人墓青柿落ちて色失せず
足立区日ノ出町に
清亮寺
がある。
久榮山清亮寺
昭和32年(1937年)、石田波郷は清亮寺を訪れて「解剖人塚」を見ている。
返り梅雨の日、千住の旧街道の商店街は七夕もすぎたのに狭い町筋を七夕竹で飾りたてたまま、中元大売出しに大わらわである。放水路に突き当たる少し手前を右折すると、幅九尺に足りぬ水戸海道がとり残されたようにひっそりとしていた。常磐線のせまいガードをぬけるとすぐ弥五郎新田の清亮寺前に出る。境内に幼稚園があるので門前で子供が遊んでいる。先生らしい若い娘さんの後について門をくぐると、泰山木の白い大きな花が雨意を払って咲きにおっていた。
明治初年日本医学のあけぼのの時代、東大の前身で石黒忠悳などが、解剖をするよりも前、明治三年八月この寺で解剖が行われている。仏をふわけさせる者などだれもいないころだ。被解剖者はすべて死罪人である。執刀は福井順道が一人、大久保適斎が九人、亜米利加人ヤンハン一人いずれも日本医学のパイオノヤ—たちだ。解剖人墓に十一人の罪人と共に名を残している。青柿の葉かげに苔むした墓に顔を近づけて私はその名をノートにひかえた。
石田波郷
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