このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
大町桂月ゆかりの地
大町桂月文学碑
東京メトロ有楽町線護国寺駅を降りて不忍通りを行き、首都高5号池袋線の下を抜ける。清戸坂
(きよとざか)
を上る途中で路地に入ると、大町桂月旧居跡の案内がある。
大町桂月旧居跡
大町桂月旧居跡
文京区目白台3−22−17
大町桂月(1869〜1925)、明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家・国文学者。
明治26年(1893年)東京帝国大学に入学し、在学中から『帝国文学』の編集にあたり、かたわら新体詩や評論を発表する。特に『黄菊白菊』『筆のしづく』『わが文学』などの主著がある。雑誌『太陽』や『中学世界』などに毎号、評論・紀行文をのせ、青少年の教養向上につくした。
桂月はまた酒と旅を愛し、全国をめぐり、多くの紀行文を書き、その第一人者となった。その足跡は、韓国、中国にもおよんだ。
大正14年(1925年)、桂月は青森県
蔦温泉
で没したが、人間味あふれる生涯で、人生のわび・さびを語り、人柄がしのばれる名文家であった。
文京区とのゆかりは明治28年(1895年)頃、小石川原町に居住して以来のことで、この地は明治42年(1909年)から没年までの住居地であった。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
大町桂月旧居跡の案内の下に表札が小さく「大町」と書かれていた。大町桂月の末裔がそのまま住んでいるのかも知れない。
この辺りは目白台というだけに、高台である。
文京区の旧町名案内によれば、昭和41年までの町名は雑司ヶ谷町であったそうだ。
延享3年(1746年)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で、物や税を納める雑司料であった。
また、建武のころ(1334〜36)、南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭
(やぎしたわかさ)
、長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹司ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩のとき、雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。
大町桂月ゆかりの地
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください