このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

村上鬼城の句碑



けさ秋や見入る鏡に親の顔

光徳寺 から高崎市鞘町のさやも〜るへ。


さやも〜るに村上鬼城の句碑があった。


けさ秋や見入る鏡に親の顔

昭和40年11月3日、鞘町町民建立。田島武夫書。

さやも〜るにもうひとつ新しい村上鬼城の句碑があった。


雹晴れて豁然とある山河かな

パーク500の地下駐車場に「村上鬼城旧居跡」がある。

 明治27年(1894年)、村上鬼城 は 高崎裁判所 構内代書人となって、鞘町に住む。

 昭和2年(1927年)6月4日未明、隣家の火事で類焼。

鞘町の生いたち

 井伊直政が慶長2年(1597年) 箕輪城 12万石から高崎に封ぜられ、和田城あとに 高崎城 を築き、慶長3年には中仙道(のちに中山道)が開かれて、高崎宿の縄張りを行い、連雀町を中心と定め、ここに高崎宿としての基礎ができ、箕輪城から商店や紺屋鍛冶弓師鞘師塗物師なども高崎へ移り住み、紺屋町鍛冶町鞘町白金町職人町(大工町)などが構成された。

 この町割りは西郷藤左衛門が藩主の命によって区割を制定したもので、この時町数が12、和田宿より18町になったと文献にある。なお全國市町村に於いて現在鞘町を名乘る所は京都市東山区鞘町1丁目鞘町通五条下ル1ヶ所である。

さくら橋 へ。

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