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義経伝説の地
〜義経の腰掛松〜
国道4号で国見峠を上り、県北中学校の先で左の細い道に入る。
義経の腰掛松があった。
源義経 が藤原秀衡を頼って奥州平泉に下向する途中、路傍に生えていた小松の枝に腰を掛けて休息をとったという。
近江国の
唐崎の松
、摂津国の曾根崎天神の松とともに「天下の三名松」として喧伝された。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は
桑折
から伊達郡(現国見町)を経て義経の腰掛松へ。
是ヨリ藤田村へかゝり、町を出離て、左の方へ二丁入、義経腰掛松有。枝葉八方に垂、枝の半バ地につき、木末は空に延て、十間四方にそびえ、苺
(こけ)
の重り千歳の粧ひ、暫木陰に時をうつしぬ。
○唐崎と曽根とはいかに松の蝉
[無都遅登理 五]
享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上義経の腰掛松を訪れている。
明の薬師、夜あけの松、よしつね腰かけ松、方二十間にあまり、秀技黛色中に連理の梢をかはし、蒼竜美髯のさま当時無双の名木なり。
松か根に登り義経団かな
絶句贈答あれともらしつ。
『烏絲欄』
元文3年(1738年)4月23日、田中千梅は松島行脚の途上、義経の腰掛松を訪ねている。
藤田の驛を過
ル
山乃麓に義經の腰掛松辨慶か硯石とて教ゆ
『松島紀行』
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、義經の腰掛松を見ている。
夫より暫く行きて。左の方山畑の中に。高九尺ばかり。枝四方へ蔓
(はびこ)
る事廿間餘り有りて。いと珍らしき松あり。是を義經の腰掛松 といふ。木の下に義經の小社
(ほこら)
あり。
『蝶之遊』
延享4年(1747年)6月1日、
横田柳几
と武藤白尼は義経の腰掛松を訪れた。
義経の腰かけ松 にて
緋おとしのゆかりや松に凌霄花
尼
『二笈集』
寛延4年(1751年)9月29日、和知風光は『宗祇戻』の旅で義経の腰掛松を訪れた。
伊達の腰かけ松一見九月廿九日なり藤田の里より半道計有るか松の高
サ
七八尺みきの太さ二抱計四方へゑだたるゝ事七間あまり凡名木也
秋もはや腰かけ松や日本一
『宗祇戻』
宝暦5年(1755年)5月13日、南嶺庵梅至は義経の腰掛松を見ている。
伊達の大木戸
を過て源義経公腰かけ松を見る枝葉鳥の羽を重ね地を穿枝あり天に逆登有高き事壱丈斗東西二十間余南北十五間彼云ふ御爵に預ル松なと是に争か勝らんや
田植見ん松の一樹を蓑に笠に
『奥羽の日記』
宝暦13年(1763年)3月28日、二日坊は義経の腰掛松で句を詠んでいる。
判官の腰懸松ハ奇異の古木也
義經を言出し草や松の花
坊
おもかけや松に藤咲く下
リ
足
凌
『みち奥日記』
明和元年(1764年)、内山逸峰は義経の腰掛松のことを書いている。
此大木戸の西の方に石母田村といふ有、此村の領の内に義経の腰懸松とて有。此松の色、常の松よりはみどりふかく、紫もこもりてしげれり。根もとより四五尺斗上り相生になりて、枝四方へ栄えたるが、ひろさみ□ひろばかりにして、土より高きこと三四尺には過ず、下をはふ
(う)
て何れの枝にも腰を懸ぬべき程に見えたり。
『東路露分衣』
寛政3年(1791年)6月1日、鶴田卓池は義経の腰掛松を訪れている。
六月朔日 廿六丁貝田 義経腰かけの松
碑有 よしつねのほまれハこゝに腰かけの松に名残る末ぞ久しき
弁慶の硯石ト云大岩アリ
『奥羽記行』
(自筆稿本)
松の東側に「義経の腰掛松」の碑があった。
寛政12年(1800年)10月、建立。
江戸の文人随古堂素官によって書かれたものだそうだが、全く読めない。
文政4年(1823年)、初代の腰掛松は修験者の焚き火によって枯れてしまった。
焼け残った松に柵を巡らし屋根を葺き、義経神社が祀られた。
それも今は朽ち果てようとしている。
同6年、信夫郡上名倉村(現福島市)の医師須貝才右衛門から赤松を譲り受け、2代目の腰掛松移し植えられた。
それも近年松食虫の被害をうけて3本の幹のうち2本は枯死して伐採された。
3代目の腰掛松であろう。
『奥の細道』『曽良随行日記』に記述はない。
旧奥州道中国見峠長坂跡
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