このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

高村光太郎ゆかりの地

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花巻〜高村山荘〜

 花巻の観光は宮沢賢治だけだと思っていたら、地図に「高村山荘」というのがあった。「高村山荘」だけでは分わからないが、側に「智恵子展望台」というのがあるので、高村光太郎ゆかりの地だと思い、立ち寄ることにした。

花巻温泉 から県道37号を南に行く。


 朝早いので、まだ誰もいない。「高村山荘」とは、どんなところか、ちょっと見るだけ、と思ったが、係りのおばさんがやってきて、「お待たせしました。」と言う。入らないわけにはいかなくなった。「高村山荘」は「高村記念館」「花巻市歴史民族資料館」と併せて入館料550円。

昭和20年(1945年)
4月13日、空襲により高村光太郎の アトリエ 炎上。


5月15日、宮沢賢治の弟である宮沢清六方へ疎開。

光太郎62歳の時である。

昭和8年(1933年)、宮沢賢治は37歳で亡くなっている。

平成13年(2001年6月12日、宮沢清六さんは老衰のため97歳で亡くなった。

高村山荘


 ずいぶん大きな山荘だと思ったら、昭和52年(1977年)に建てられた第二套屋だった。中に昭和33年(1958年)に建てられた套屋があり、さらにその中に粗末な小屋がある。鉱山の飯場小屋を移築したものだそうだ。

 昭和20年(1945年)8月10日、宮沢家も 戦災 に遭う。光太郎は10月から、この小屋で農耕しながら一人で暮らした。

光太郎「雪白く積めり」の詩碑がある。


 「雪白く積めり」は、昭和20年(1945年)12月23日 、山小屋生活で最初に迎えた冬の作詩だそうだ。

 山荘の後ろの丘に「智恵子展望台」がある。智恵子は昭和13年(1938年)に52歳で亡くなっている。展望台からの眺めは思ったほどでもなかった。

八幡平アスピーテライン に向かう。

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