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森鴎外ゆかりの地
〜「みちの記」〜
明治18年10月15日、信越線高崎−横川間開通。
明治23年(1890年)8月17日、森鴎外は上野を出、横川へ。
明治二十三年八月十七日、上野より一番汽車に乘りて出づ。途にて一たび車を換ふることありて、横川にて車はてぬ。これより鐵道馬車雇ひて碓氷嶺にかゝる。その車は外を青「ペンキ」にて塗りたる木の箱にて、中に乘りし十二人の客は肩腰相觸れて、膝は犬牙のように交錯す。つくりつけの木の腰掛は、「フランケット」二枚敷きても膚を破らんとす。右左に帆木綿のとばりあり、上下にすぢがね引きて、それを帳の端の環にとほしてあけたてす。
碓氷峠は鉄道馬車で越えなければならなかった。
明治21年12月1日軽井沢−直江津間開通。
明治26年4月1日、横川−軽井沢間開通。
碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」。
森鴎外は碓氷峠を越えると上田に泊まり、18日人力車で須坂へ。
須坂にて晝餉食べて、乗りきたりし車を山田まで繼がせむとせしに辭みていふ。これより路は嶮しく、牛馬ならでは通ひがたし。偶々牛挽きて山田へ歸る翁ありて、牛の背借さむといふ。これに騎りて須坂を出づ。
須坂から牛の背に乗って山田温泉へ。
日暮るる頃山田の温泉に著く。こゝは山のかひにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより來りて浴する病人あるのみ。宿とすべき家を問ふにふぢえやといふが善しといふ。まことは藤井屋なり。
「藤井屋」は今の
「藤井荘」
。
19日、温泉のことを書いている。
温泉を環りて立てる家數30戸ばかり、宿屋は7戸のみ。湯壺は去年まで小屋掛けのやうなるものにて、その側まで下駄はきてゆき、男女ともに入ることなりしが、今の混堂立ちて體裁も大に整ひたりといふ。人の浴するさまは外より見ゆ。うるさきは男女皆湯壺の周圍に臥して、手拭を身に纏ひ、湯を汲みてその上に灌ぐことなり。湯に入らんとするには、頸を超え、足を踏みて進まざれば、終日側に立ちて待てども道開かぬことあり。男女の別は、男は多く仰ぎふし、女は多くうつふしになりたるなり。
共同浴場「大湯」
現在の共同浴場「大湯」は混浴ではない。
23日、藥師堂の前で大きな岩魚
(いわな)
を買って宿の下女に笑われた。
村はづれの藥師堂の前にて、いはなの大なるを買ひて宿の婢に笑はる。いはなは小なるを貴び、且ところの流にて取りたるをよしとするものなるに、わが買ひもてかへりしは、草津のいはなの大なるなれば、味定めて惡からむといふ。嘗
(こゝろ)
みるに果して然り。
「村はづれの藥師堂」
雪に埋もれるように小林一茶(1763−1827)の句碑があった。
梅が香よ湯の香のよさては三日の月
明治27年11月建立ということだから、森鴎外が山田温泉を訪れてから4年後である。
26日、洪水で取り急ぎ豊野へ。
二十六日、天陰りて霧あり。きょうは米子に往かんと、かねて心がまへしたりしが、偶々信濃新報を見しに、處々の水害にかえり路の安からぬこと、かずかず書きしるしたれば、最早京に還るべき期も迫りたるに、ここに停まること久しきにすぎて、思いかけず期に遅るゝことなどあらんも計られずと、危ぶみおもひて、須坂に在りて待たんといはれし丸山氏のもとへ人をやりて謝し、急ぎて豊野の方へいでたちぬ。
豊野から軽井沢へ。油屋に泊まる。
旅籠
油屋
豊野より汽車に乗りて、經井澤にゆく。途次線路の壊
(やぶ)
れたるところ多し、又假に繕いたるのみなれば、そこに來るごとに車のあゆみを緩くす。近き流を見るに、濁浪岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。されど稲は皆恙なし。夜經井澤の油屋にやどる。
27日、荷車に乗って碓氷峠を下り、横川へ。
二十七日、払暁荷車に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱に比ぶれば、はるかに勝れり。固より撥条
(バネ)
なきことは同じけれど、壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵る。
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