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旅のあれこれ



『宗祗終焉記』(柴屋軒宗長 )

 文亀元年(1501年)、宗長が越後の国府に師の宗祗を訪ね、翌年相携えて帰る途次、宗祗が箱根の湯本で没した次第を記し、水本与五郎に送ったもの。

宗長が越後の国府に師の宗祗を訪ねる。

 宗祗老人、年ごろの草庵も物うきにや、都の外のあらましせし年の、春のはじめの発句に、

   身や今年都を余所のはるがすみ

その秋の暮、こし路の空におもむき、此のたび帰る山の名をだに思はずして、越後の国にしるたよりをもとめて二とせ計送られぬと聞きて、文亀はじめの年六月の末、駿河の国より一歩をすゝめ、 足柄山 をこえ、富士のねをよそに見て、伊豆の海、おきの小島による浪、こゆるぎの磯をつたひ、鎌倉を一見せしに、右大将家のそのかみ、また九代の栄えも、ただ目の前の心ちして、鶴が岡のなぎさの松、雪の下のいらかは、げに岩清水にもたちまさるらんとぞ覚え侍る。 山々のたゝずまひ、やつやつきしまじまいはゞ筆のうみも底見えつべし。爰には九年がこのかた、山の内、扇の谷、鉾楯の事出で来て、凡八ケ国二かたにわかれて、道行く人もたやすからずとは聞こえしかど、こなたかなた知るつてありて、武蔵野をも分け過ぎて上野をへて、なが月朔日頃に、越後の国府に至りぬ。

宗長は信濃から草津へ。宗祗は 伊香保 へ。

 きさらぎの末つかた、をこたりぬれど、都のあらましは打ち置きぬ。上野の国草津と云ふ湯に入りて、駿河の国に罷帰らんのよし、おもひ立ちぬるといへば、宗祗老人、我も此の国にしてかぎりを待ち侍れど、命だにあやにくにつれなければ、こゝらの人々のあはれびも、さのみはいとはづかしく、又都に帰りのぼらんも物うし。 美濃国にしるべありて、のこるよはひのかげかくし所にもと、たびたびふりはへたる文あり。哀ともなひ待れかし、富士をも今ひとたび見待らんなどありしかば、うちすて国に帰らんも、つみえがましくいなびがたくて信濃路にかゝり、ちくま河の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、廿六日といふに、草津といふ所につきぬ。

 おなじき国に、伊香保といふ名所の湯あり。中風のためによしなど間きて、宗祗はそなたにおもむき、二かたになりぬ。此の湯にてわづらひそめて、湯におるゝ事もなくて、五月のみじか夜をしもあかしあびぬるにや、

  いかにせむ夕告鳥のしだりをに声恨むよの老のねざめを

川越から江戸へ。

 みよし野の里、河越にうつりて十日余りありて、文月の初に江戸といふ館にして、すでにいまはのやうにありしも、又とりのべて、連哥にもあひ、気力も出でくるやうにて、鎌倉近き処にして、廿四目より千句の連哥あり。廿六日にはてぬ。一座十句十二句など、句数も此ごろよりはあり。おもしろき句もあまた侍しそかしこの千句の中に、

  けふのみと住む世こそ遠けれ

といふ句に、

 八十までいつかたのみし暮ならむ

 年のわたりはゆく人もなし

 老のなみいくかへりせばはてならん

思へば、いまはのとぢめの句にもやと今こそ思ひあはせ侍れ。

文亀2年(1502年)7月30日、宗祗は箱根湯本で客死。享年82歳。

 おのおのこゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意せさせて、うちやすみしに、夜中過るほど、いたくくるしげなれば、をしうごかし侍れば、只今の夢に定家卿にあひたてまつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥を吟ぜられしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、又このたびの千句の中にありし前句にや、

   ながむる月にたちぞうかるゝ

といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みなみな付け侍れなどたはぶれにいひつゝ、ともし火のきゆるやうにしていきも絶えぬ。

箱根湯本の 早雲寺 に墓がある。

 文亀2年(1502年)8月11日、宗長は 清見が関 へ。

 道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうがりしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長

   もろともに今夜清見が関ならばおもふに月も袖ぬらすらん

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