このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

島崎藤村ゆかりの地

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島崎藤村『草枕』詩碑

仙台市宮城野区名掛丁に名掛丁藤村広場がある。


名掛丁藤村広場に島崎藤村『草枕』詩碑があった。


心のやどの みやぎ野よ 乱れて熱きわが身には
日かげもうすく草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ
独りさみしきわが耳は 吹く北風を琴と聞き
かなしみふかき吾が眼には 色無き石も花と見き

島崎藤村

年若き日の思い出に旧詩草枕の一節をしるす

 『草枕』は、藤村が漂泊の末たどり着いた仙台の地が、やがて夜明けの地、春の到来を告げる場所になることを確信していく心の軌跡を自伝風に綴った長い詩です。明治38年8月刊行の『若菜集』51篇の中でも特別な位置づけのされる代表作のひとつです。

 碑文は、その中の一節で、心の中に見えた宮城野が感動的に歌われ、自筆で記されています。藤村自身、回想の中で好んで引用し、「私が一生の曙は、このようにして開けてきた」と述べています。

 この碑は昭和11年11月、当時の土居光知東北大学教授ら有志により八木山に建立されました。日本近代詩の第一歩がしるされたこの仙台の地にこそ碑を、という熱い思いから藤村に揮毫を求め、実現したものです。当初、宮城野原が候補地にあがりましたが、陸軍第二師団歩兵第四連隊があったため、静かな八木山に建立されたのでした。翌12年に来仙した藤村は、碑を前に感激し、「これはたゞの詩碑でもない、むしろ、青春の碑とも言ひたい」と述懐しています。

 昭和40年、八木山に新たに動物公園が開設され、続く拡張工事に伴い、藤村詩碑は同42年4月、青葉山公園( 仙台城跡 )に移されました。

 藤村が下宿した『三浦屋』の跡地は、仙台駅東第2土地区画整理事業の中で、平成16年、地元の人々の思いにより、藤村ゆかりの広場として整備されました。そして同19年、青葉山の詩碑は、若き藤村が詩心をはぐくみ、地域の誇りを守り育てる活動が熱心に続けられてきた、この地に、安住の場を求めることになりました。

仙 台 市

詩碑にも歴史がある。

「日本近代詩発祥の地」の碑


名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡

ここ三浦屋にありて
若き島崎藤村
日本近代詩の夜明けをつげる
『若菜集』を生む

島崎藤村と名掛丁

 島崎藤村が東北学院の教師として来仙したのは明治29年24歳の時でした。

 木曽馬籠の生家の没落、明治女学校での教え子との失恋、そして親友北村透谷の自殺など, 東京での悩み多き生活から逃れるように仙台にやってきました。孤独と憂いを抱いて行き着いた仙台の風土は、藤村の心の傷を癒し、苦境から立ち直らせました。そして藤村の口からうたい出された詩は、日本近代詩の先駆けとなった『若菜集』として出版され、日本中で愛読されました。

 その数々の詩作を生み出す舞台となったのが名掛丁の下宿屋「三浦屋」だったのです。名掛丁での生活を藤村は次のように語っています。

 仙台の名影町といふところに三浦屋といふ古い旅人宿と下宿屋を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣に石屋がありまして、私がその石屋との競争で朝早く起きて机に向かったことを憶えて居ます。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海のなる音がよく聞こえて来ました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。

「市井にありて」より

※藤村は『名掛丁』を『名影町』と書いています。

名掛丁東名会

 明治27年(1865年)5月、 北村透谷 は東京芝公園内の自宅で自らその生涯の幕を閉じた。

「潮音」の詩碑もあった。


わきてながるゝ
 やほじほの
そこにいざよふ
 うみの琴
しらべもふかし
 もゝかはの
よろづのなみを
 よびあつめ
ときみちくれば
 うらゝかに
とほくきこゆる
 はるのしほのね

「潮音」の詩は、知らなかった。

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