このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ

坂本宿 は、中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場。


坂本宿上木戸


松尾芭蕉の句碑があった。


ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ

貞亨5年(1688年)4月1日、 『笈の小文』 の旅の途中の句である。

芭蕉句碑

 江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人連が、春秋 白雄 先生に依頼し選句し書いてもらった句である。

 高さ1.5m、幅 基幅1.20m、頂部0.60m、厚さ約0.20m 石質は刎(はね)石(安山岩)で 刎石 (はねいし)山頂にあったものを明治年間 廃道のため現在地に移転した。書体は「ちくら樣」で、句は 『曠野』 にあり、内容は木曽路下りのもので、碓氷峠のものではない。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ

松井田町教育委員会

『諸国翁墳記』 に「衣 塚 上野國碓水郡坂本宿 竹睡庵連中建」とある。

 寛政2年(1790年)、 加舎白雄 は信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫。

寛政3年(1791年)9月13日、白雄は53歳で没す。

 文化2年(1805年)8月10日、 川村碩布 は碓氷峠を越える時に芭蕉の句碑を見ている。

 碑あり

   ひとつ脱てうしろに負ぬ衣かえ   はせを翁

 処から九折の坂中にたてたれは余味眼前に湧て涙もこほるゝはかり尊とし

『穂屋祭紀行』

碩布の自撰句集 『布鬼圃』 に「穂家露」として収録されている。

 文化3年(1806年)5月23日、伊澤蘭軒は碓氷峠の刎石坂を上り、芭蕉の句碑を見ている。

乃撫院衣一ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更といふ句なり。古人の實境を詠ずる百歳の後合する所あり。

森鴎外 『伊澤蘭軒』(その三十一)

 平成18年(2006年)3月18日、松井田町は安中市と合併して安中市松井田町になった。

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