このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


志ら露も古保連ぬ萩のう禰里哉

JR山手線巣鴨駅東口から白山通りを行く。


旧中山道はタネ屋街道。

江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道

 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。

 旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、種子(たね)を欲しがる人も多く、やがては農家の副業として種子(たね)を販売するようになりました。 その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現すると、種子(たね)を扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6キロの間に種子(たね)屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並ぶ、種子(たね)屋街道になっていました。

 寛永20年(1643年)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪の種子(たね)の行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。

 馬12〜3頭を曳いて種子(たね)を仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立て街道筋の種子(たね)問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じように種子も行商により商われていました。

真性寺がある。


正しくは 真言宗豊山派 醫王山東光院眞性寺。

御府内八十八箇所 第33番である。

『江戸名所図絵』(巣鴨真性寺)


真性寺の江戸六地蔵尊。


正徳4年(1714年)建立。

片隅に芭蕉の句碑がある。


白露もこぼさぬ萩のうねり哉

志ら露も古保連ぬ萩のう禰里哉」と書かれている。

『翁草』 には「白露を」、 『風羅袖日記』 には「ひと露も」とある。

元禄6年(1693年)秋、 杉山杉風 の別邸 採茶庵 の萩を見て詠んだ句。

『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄四未とし」とする。

裏面には杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」の句が刻まれているそうだ。

寛政5年(1793年)5月、芭蕉の百年忌に採荼庵梅人社中建立。

巣鴨通医王山真性寺 境内萩の茂の中に在

   萩墳

   題 杉風萩

しら露もこぼれぬ萩のうねり哉
   芭蕉翁

   此あはれにひかれて

萩植てひとり見習ふ山路かな
   杉風

 寛政癸丑歳仲夏 彩荼庵梅人社中


  梅人 は採荼庵二世。平山氏。三河田原藩士で、江戸に住んだ。俳諧を広岡宗瑞に学ぶ。

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