このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


当帰より哀は塚のすみれ草

鶴岡市羽黒町手向の宿坊街に烏崎稲荷神社がある。


烏崎稲荷神社


烏崎稲荷神社の参道右手に図司呂丸追悼碑があった。


消安し都の土に春の雪

呂丸 辞世の句である。

右に 支考洒堂 、芭蕉の呂丸追悼句が書かれていた。

洒堂は近江膳所の医師。

寛政5年(1793年)2月、呂丸百回忌に建立。

図司呂丸追悼碑の上に詳しい説明が書いてあった。

図司呂丸追悼碑

   辞世

消安し都の土に春の雪
   呂丸

   追悼

死に来てそのき佐良支の花の陰
   野盤子

雁一羽いなてみや古の土の下
   酒落堂

当帰より哀は塚のすみれ草
   芭蕉庵

     寛政五癸丑年二月
 施主
 三峰


 翠古

 執筆
 竹甫

   呂丸近藤左吉略歴

 近藤左吉、俳号呂丸。羽黒町手向荒町に住み、図司姓も称した。左吉、染屋を本業となし、俳諧に志す。俳聖芭蕉翁の奥の細道に「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかに、あるじせらる。」云々とあるは、遠く元禄2年の昔である。

 呂丸が芭蕉翁の俳論を書きとめた「聞書七日草」又呂丸傳書「うたまくら」は酒田市立光丘図書館に保存されている。呂丸は元禄5年芭蕉翁を慕い、俳諧修業の旅に出た。その時貰ったのが 「三日月日記」 である。ついで京洛に上り、元禄6年2月2日、病のため京都で客死された。芭蕉翁いたく呂丸の客死を惜みなげいて、その消息を長文の書簡に認め、鶴岡の俳人翁岸本八郎兵エ氏に送った。その書簡は、現在鶴岡市本町1丁目児玉光弘氏所蔵する。

 この追悼碑は寛政5年呂丸没後約100年を経て、当時の羽黒俳人等故人を偲び、建立されたものである。

 昭和44年5月
土岐多聞謹記

 当帰はセリ科の多年草。漢方薬として用いられる。「当ニ帰ルベシ」の意を含めているようだ。

昭和40年(1965年)、 山口誓子 は手向で呂丸の追悼句碑に案内された。

 手向を走っているとき、天野氏は羽黒館の近くで自動車を停め、その奥の烏崎稲荷に私を案内した。呂丸の追悼句碑がそこにあるからである。

 本殿の横にあるその句碑は、表に呂丸の辞世。暮れちかいせいもあってすこし読みにくい。

   消安し都の土ぞ春の雪

 芭蕉は呂丸を訪ねて羽黒山に来たのだ。呂丸は大いに務め、芭蕉を本坊の客とした。

 元禄六年、呂丸は京都で客死した。辞世の「都」は京都である。

碑の右に「追悼」として三句。

   死に来てそのき佐ら支の花の陰

   雁一羽いなでみやこの土の下

   当帰より哀は塚のすみれ草

 作者、右より支考、酒堂、芭蕉。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

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