このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
牧水歌碑
「
牧水荘
土肥館」
土肥温泉
「
牧水荘
土肥館」
に若山牧水の歌碑がある。
わが泊り三日四日つゞきゐきたるこの部屋に見よ冬草の山
大正11年(1922年)、牧水は元日から12日まで土肥温泉「
牧水荘
土肥館」に滞在。
土肥温泉にて
一月一日、沼津狩野川々口より伊豆国土肥温泉に渡り十日あまり滞在す。
柴山のかこめる里にいで湯湧き梅の花咲きて冬を人多し
わが泊り三日四日つづき居つきたるこの部屋に見る冬草の山
第14歌集『山桜の歌』
1月12日付けで出した中村柊花宛の繪葉書がある。
元日早々此處に來て、今日までゐました、「お正月」を逃げてゐたわけです。
大正11年(1922年)1月11日、
喜志子
は土肥温泉にやって来た。
1月12日付けで高島友次郎宛の葉書がある。
昨日、一昨日の大荒のあとの海を血へどを吐きながら細君がやつて來たので肝をつぶしました。今朝よく凪いでゝ、明日がまた恐いといふので、大急ぎで今朝の船で帰ります。
『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)によれば、昭和45年(1970年)8月24日除幕、59番目の牧水歌碑である。
牧水の歌碑の隣りに喜志子の歌碑。
蛙なき夕さりくればかへらましかへらましといふ吾子つれてきぬ
大正12年(1923年)、牧水は元日から「
牧水荘
土肥館」に来て、2月5日頃まで滞在。
1月7日付けで出した和田山蘭宛の繪葉書がある。
僕も此處に來てから(白骨で發明した方法だが)先づ宿から一升の酒をとり寄せておき、自分で適當におかんをして飲むのだ。元日に來ていま三本目が半分ある。これも即ち獨酌讃美の一かも知れない。もつとも、湯が島の樣な奴でもゐればネ、話はまた別だが。
館内に若山牧水ギャラリーがある。
掛け軸が3幅。
わが泊り三日四日つゞきゐきたるこの部屋に見よ冬草の山
しば山のかこめる里にいで湯わき梅のはな咲きて冬を人おほし
幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ國ぞけふも旅ゆく
初めの2首は「
牧水荘
土肥館」滞在中の歌。
3首目は、明治40年(1907年)7月、22歳の牧水が郷里宮崎へ帰る途中で岡山県
二本松峠
を越える時に詠んだ歌である。
沼津の
千本浜公園
に歌碑がある。
大正14年(1925年)5月、初めて初夏に土肥を訪れ、家族と「
牧水荘
土肥館」に宿泊したようだ。
花のころに来馴れてよしと思へりし土肥に来て見つその梅の実を
土肥の
松原大橋
に歌碑がある。
牧水歌碑
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