このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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牧水歌碑
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祖父健海の生家

 西武新宿線新所沢駅から県道6号川越所沢線を川越方面に行くと、神米金(かめがめ)という珍しい地名がある。


 明治9年(1876年)、神谷新田の「神」、久米新田の「米」、掘金新田の「金」をあわせて、「神米金(かめがめ)」とつけられたそうだ。

下富交差点に八雲神社がある。


八雲神社


八雲神社の隣が若山牧水の祖父健海の生家である。

 牧水は「おもひでの記」に「私の祖父は武蔵川越在の農家の出で、幼児より江戸に出で両国の生薬屋に奉公してゐた。」と書いている。

 「武蔵川越」と書いているが、実際は現在の所沢市神米金、当時の入間郡富岡村であった。

 健海は13歳の時に江戸へ出て両国の薬屋に奉公し、その後長崎で蘭学と西洋医学を学ぶ。26歳の時に宮崎県東臼杵郡東郷町の坪谷に移り住む。健海は江戸に出ていた時の友人水野栄吉の娘カメと結婚する。その長男立蔵(りゅうぞう)が牧水の父である。

 宮崎県東臼杵郡東郷町の坪谷には健海が弘化2年(1845年)に建築した牧水の生家が昔のままに保存されている。 牧水の生家 は史跡として県の指定を受けているそうだ。

生家のすぐ裏には歌碑があるそうだ。

ふるさとの尾鈴のやまのかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり

第6歌集『みなかみ』

牧水の第6歌集『みなかみ』巻頭の歌である。

 明治45年(1912年)7月23日、牧水は父危篤の急電に接して帰郷。11月14日、牧水の父立蔵(りゅうぞう)は亡くなる。

 昭和42年(1967年)、牧水の生家に隣接して牧水記念館が開館した。若山牧水記念館は牧水の長男旅人の設計だったそうだ。その若山牧水記念館も老朽化して、 牧水公園 内に新しく若山牧水記念文学館が建設され、2005年4月1日にオープンした。

宮崎県は遠いので、行けない。

 牧水が祖父の生家を訪れたのは明治37年(1904年)4月、早稲田入学に伴い上京した時のこと。牧水19歳の時である。

健海の生家の裏庭に牧水の歌碑がある。


のむ湯にも焚火の煙匂ひたる山家の冬のゆふげなりけり

 大正6年11月に詠まれた歌。『溪谷集』に「秩父の秋」と題して96首収められているものの中の1首。「十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を歴巡る、その時の歌。」と詞書がある。

句碑の脇に「若山牧水の歌碑を建てる会」の説明が書いてあった。

建設にあたり

 この碑の建設については昭和35・6年頃、当時の所沢市長新井萬平氏、郷土史研究家北田伊典氏などが建設運動を起こし若山家先代諏訪太郎氏のご協力により若山家の屋敷内に建設することになった。

 しかし、その後関係者のあいつぐ物故により運動も途絶えてしまったのである。

 ところが昭和53年は牧水没して50年にあたり、当時の事情を知った関係者地元有志の間から健海と牧水の顕彰の碑を建設する運動が改めてもちあがり、若山牧水の歌碑を建てる会が結成された。

 以来熱心な各位のご支援ご協力により今回の竣工をみたのである。

 昭和53年11月8日

若山牧水の歌碑を建てる会

大悟法利雄『牧水歌碑めぐり』によれば、80番目の牧水歌碑である。

 中央大学文学部文学科国文学専攻渡部芳紀研究室の 「若山牧水文学散歩」 には「祖父健蔵の生家を訪れる。」とある。祖父の名前はどちらが正しいのか、問い合わせてみたところ、「昔の人は良く名前を変えたし、号も持っていましたから、両方正しいのでは」ないかとのこと。

 また 神米金通信 に問い合わせてみたところ、本名が「健蔵」で、号が「健海」だろうとのこと。これが妥当なところかも知れない。

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