このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
牧水歌碑
喜連川神社
那須の温泉に行こうと思ったが、那須の辺りは雪雲に覆われている。仕方がないので、袋田温泉に行くことにした。
東北自動車道矢板ICから国道4号に入り、氏家に向かう。
氏家で国道293号に入り、喜連川へ。
大正4年(1915年)7月、若山牧水は氏家から馬車で喜連川を訪れた。
喜連川神社に若山牧水 と高塩背山の歌碑があるというので、立ち寄ることにした。
石の鳥居を入つて石段に突き當つて左に折れて、と馬車屋の教えた高鹽君の宅はすぐ知れた。冠木門をくゞり、藺
(い)
や河骨のある小さな池の間を通り、玄關に立つた時、私はまた新たな動悸を感じた。
若山牧水「喜連川」
「石の鳥居」
「冠木門」や「小さな池」は無かったが、若山牧水と高塩背山の歌碑があった。
その夜は泉水に面した座敷で嬉々として酌み交わした。酒を飲むといふより寧ろ何彼と話すのが主であつた。友人の阿父
(おとう)
さんも──高鹽家は土地の郷社の神官をして居らるゝ──我等の不作法な席に永いこと相伴をしてくだされた。
若山牧水「喜連川」
「友人の阿父
(おとう)
さん」即ち背山の父、数麿は高塩家十九代の神官。
若山牧水の歌碑
時をおき老樹の雫おつるごとしづけき酒は朝にこそあれ
高塩背山兄の許に宿れる翌朝 大正四年夏 牧水
高塩背山の歌碑
かぜとよむ桜若葉のあひだより
のこれる花のちるはさびしき 背山
喜連川町長の説明が書いてあった。
高塩背山(明治15年〜昭和31年)は本名、正庸
(まさつね)
。この地に生まれた。明治35年前橋中学校を病気で中退後、父祖伝来の喜連川神社神職を継承、かたわら小学校教員をしていたが、24裁の頃から作歌をこころざし、一時尾上柴舟に師事して歌と書の指導を受けた。その当時から若山牧水ほか多くの青年歌人と知り、文通。明治43年、牧水の『創作』に参加、以後創作社の中軸として名を知られる。
牧水と背山との親交は深く、牧水はその生涯において3回、背山宅を訪ねて宿泊しているが、その第1回目は大正4年7月19日で、宿った翌朝に「時をおき…」の歌を詠んだ。この作は牧水の酒の歌では代表的な名歌のひとつである。
背山はこれという旅もせず、常に郷土の自然を対象に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を作り続けたが、昭和31年5月31日に74歳で病没した。歌集に『峽間
(はざま)
』『移りゆく自然』の二著がある。
このすぐれた近代歌人二人の足跡をここに誌し、永遠に記念するためにこの双歌碑を建て、郷土の誇りとするものである。
平成元年4月
喜連川町長 塩野昌美
石段を登ると、喜連川神社がある。
喜連川神社
祭神は素盞鳴命
(すさのおのみこと)
・奇名田姫命
(くしなだひめのみこと)
。
素盞鳴命
(すさのおのみこと)
は天照大神
(あまてらすおおかみ)
の弟。奇名田姫命
(くしなだひめのみこと)
は出雲国の脚摩乳
(あしなずち)
・手摩乳
(てなずち)
の娘。八岐大蛇
(やまたのおろち)
の生け贄になるところを素盞鳴命
(すさのおのみこと)
に救われ、その妻となる。
素盞鳴命
(すさのおのみこと)
について、詳しくは鈴木三重吉
『古事記物語』
永禄6年(1563年)に領主源惟朝が戦国時代の心の拠り所にしようと、尾張国津島の牛頭天王の分霊を勧請した社で、塩谷氏、喜連川氏の代々崇敬の社とました。
袋田の滝
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