このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
牧水ゆかりの地
お丸山公園
喜連川に若山牧水の歌碑があったはずだが、喜連川町の案内にも出ていない。
喜連川スカイタワー
で尋ねてみたが、知らないと言う。
お丸山公園を出ると、右手にそれらしいものがあった。
牧水思慕
ひぐらしのいそぎてなけばゆくりなく思ひぞいづる君の旅姿
説明が書いてあった。
若山牧水七年忌のときの歌
若山牧水(1885〜1928)は旅の歌、酒の歌で親しまれている国民的大歌人であるが、背山とは心を許した友であった。二人は若いとき相識り、その友情は終生変わることがなかった。牧水は喜連川に三度来訪し、背山宅に泊まった。牧水が背山について詠んだ歌は19首、その紀行文「喜連川」は名文である。背山が牧水に関して詠んだ歌は90首に及ぶ。
「牧水の歌碑」ではなく、「背山の歌碑」だった。
歌碑の裏に銘文が書かれていたが、よく読めない。
そこで喜連川町役場に問い合わせてみた。
高塩背山(1882〜1956)
喜連川が生んだ自然歌人。生涯、喜連川の自然と人生を清明な心で歌いつづけ、歌集『峽間』『移りゆく自然』など四千五百余の歌を残した。栃木県を代表する歌人の一人で、中央歌壇にその名を留めた。歌と書は尾上芝舟に師事、若山牧水とは兄と弟ともいうべき親しい間柄であった。背山の残した厖大な歌の数は、喜連川町にとって、明治、大正、昭和の風物詩とも文化史ともいうべき内容を含んでいる。
いまここに、背山の業績を記念し、この遊歩道を「文学の道」と名づけ、数個の背山の歌碑を建立した。歌の選と文は高塩幸雄、書はこの町の植木盛、石彫は小島昇に委嘱した。
平成二年三月吉日
喜連川町長 塩野昌美
なお、3月28日、喜連川町は氏家町と合併して「さくら市」となるそうだ。
大正4年(1915年)7月、牧水は氏家から馬車で初めて喜連川の背山宅を訪れた。
宇都宮より三つ目、氏家驛下車、直ぐに馬車に移り、また田圃の中を走る。一里ほども行つた所で、小高い丘を越えた。峠を過ぎると下に大きな河が見えその向うに白々とした町が見えた。此處だなと思ふと、もう私の胸は踴り始めた。初めて見る喜連川の町は山ではないが、眞白な河原を前に背後に青やかな丘を負うてゐた。
若山牧水「喜連川」
牧水氏来る
妻も来よ子も来よ家族
(うから)
みんな来よこの客人
(まろうど)
によろこびあらしめ
喜連川神社
に牧水の歌碑があるそうだ。
時をおき老樹の雫おつるごとしづけき酒は朝にこそあれ
大正11年(1922年)10月28日、牧水は『みなかみ紀行』の旅の後、日光湯元板屋旅館で奥さんに「それから中禪寺へゆく、そこでは木馬の叔父さんのうち米屋へ泊る、」と書いている。
大正11年(1922年)11月3日、牧水は『みなかみ紀行』の旅を終えて
日光
から訪れている。
はるかなる旅を辿り來いまこゝにこの友どちと遭へるたのしさ
3度目は揮毫会で訪れる。
大正14年(1925年)9月6日、喜連川大村氏宅より葉書を出している。
喜連川の酒もうまい、昨日川に釣りにゆきオンリーワンピキ釣つた、昨夜、大村君のうちでカンビャクイライをやつた、明日は東京へ。
葉書には「ふみ子、喜志子、木馬とのよせ書」が添えられているそうだ。
「もとゆ温泉(喜連川町第1温泉浴場)」
へ。
牧水ゆかりの地
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください