このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2006年

海鹿島〜碑巡り〜
indexにもどる

犬吠埼 から海岸沿いに海鹿(あしか)島へ。


細い路地を入り、やっと竹久夢二の詩碑を見付けた。

竹久夢二 詩碑


   宵待草

まてど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな

夢二

 明治末期から大正にかけて活躍した叙情画家であり詩人の 竹久夢二 が、海鹿島海岸にひっそりと咲き乱れる宵待草によせて、わが身の悲恋をうたったものです。

 この詩の一節と肖像を刻んだ文学碑が作詞の地である海鹿島高台に昭和46年に建立されました。

 明治43年(1910年)の夏、夢二は銚子海鹿島の「宮下」という貸間にやってきた。「宮下」の南隣に長谷川康という名望家がいて、その三女賢(かた)を夢二は見初めた。いつも2人は散歩していて大評判になったそうだ。

7月2日

砂の白い小松の多い小高い所を通つてゆく、日が照つて、月見草の花が赤くしほれてゐる、草いきれがして、目がいたむ、けれど何だか そこになつかしみがあつて自分の心とこの岡と低き木との間に何かしらおなし呼吸をしいゐるよふに思へる、

灰色の鳥のむくろは砂浜にうちあげられて幾日経にけむ

『夢二日記』(明治43年)

 翌年、夢二は再び海鹿島にやってきた。その時すでに賢(かた)は鹿児島へ嫁入りしていた。

 この辺りに国木田独歩の詩碑や尾崎咢堂の歌碑もあるはずだが、いいことにする。

海岸に出ると、小川芋銭の句碑があった。

小川芋銭 句碑


自然石がそのまま句碑になっている。

   銚子灘朝暾(ちょうとん)

大海を飛びいつる如と初日の出

芋銭子

朝暾(ちょうとん)は朝日のこと。

 芋銭(本名・茂吉)は、特異な画風をもって知られ、ことに酒脱な俳画は広く愛好されてました。昭和13年、71歳で死去しましたが、晩年は海鹿島の別荘「潮光庵」を借りて住み、「海島秋来」「雲巒烟水」「河童百図」などの名作を描きました。碑文の句は、現在の天皇陛下がご生誕の時、この地でその喜びを詠んだものです。昭和34年銚子咢堂会により自然石の大岩に刻まれました。

 芋銭という雅号は徒然草第60段に書かれているイモ好きの坊主の話から生まれ、自分の絵がせめてイモぐらい買える銭にでもなればと考えたからだそうだ。

浄国寺 へ。

「私の旅日記」2006年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください