このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

観音堂〜生(鮮魚)街道〜
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我孫子市都に観音堂がある。


観音堂


本尊は馬頭観音。

新四国相馬霊場八十八ヶ所 58番札所である。

観音堂の裏が生(鮮魚)街道。

生(鮮魚)街道

 江戸時代、銚子や鹿島灘などで水揚げされた鮮魚は江戸日本橋の魚市に送られていました。旧暦の5月から7月の夏季には関宿を回って全て船便で送られました。それ以外の季節は銚子から木下、布佐の河岸に送られ、そこで馬に積み替えられて陸路、木下からは 行徳 へ(行徳みち)、布佐からは 松戸 へ(松戸みち)送られ、再び船に積み替えられて日本橋へ送られていました。銚子で夕刻に出発した鮮魚は翌日の夕刻から夜に日本橋に到着したそうです。

 なま街道で鮮魚の輸送がはじまったのは慶安3年(1650年)頃からです。布佐から松戸に至る道筋は、布佐−発作−亀成−浦部−平塚−富塚−藤ヶ谷−佐津間−金ヶ作−松戸の道筋をたどって送られました。

 明治になり馬にかわって鉄道が使われるようになると、なま街道もその役割を終えました。

我孫子市教育委員会

布川と布佐を結ぶ栄橋


 昭和5年に架けられたもので、江戸時代関東郡代伊奈半十郎忠治が架けた橋と位置が少し変わっているそうだ。

榎本邸四脚門


布佐が河岸として栄えていた頃のたたずまいを今に残している。

 貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は 『鹿島紀行』 の旅で布佐に泊まっている。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとりふさといふ所につく。此川にて鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。

 文化14年(1817年)8月26日、国学者高田与清は舟で布川河岸へ。

舟のまうけまで、かねて文伯がおきてせしかば、平に布佐の津にはてぬ。布川の里は東北の岸に見ゆ。このごろ順行・傳四郎・文伯などがまめしきあるじまうけの心ばへは、詞にも筆にものべつくしがたし。

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