このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2005年

葛飾八幡宮〜小林一茶の句碑〜

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京成本線京成八幡駅北口を出て線路沿いに行くと、葛飾八幡宮 がある。


参道を行くと、随神門の手前に 小林一茶の句碑 があった。


冬木立むかしむかしの音すなり

「なり」は断定ではなく、推定。

平成2年(1990年)4月、建立。

「葛飾を歩く会 万歩塚起点」と書いてあった。

葛飾八幡宮

 寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来武神として崇敬された。

 御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)

玉依姫命(たまよりひめのみこと)は海彦山彦の神話で知られる 豊玉姫命 の妹。

 治承4年(1180年) 源頼朝 は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には千葉常胤(つねたね)に命じて社殿を修復させたという。

源頼朝公駒どめの石


 頼朝公の馬がこの石に前足を掛け、ひづめの跡を残したことから、駒どめの石といわれる。

 また、文明11年(1479年) 太田道灌 は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591年)には、徳川家康が社領として朱印五十二石を供御(くぎょ)して崇敬している。

社殿


 明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内にし上野東叡山寛永寺の末寺が別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物である。また、山門の仁王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ、随神門とよばれるようになった。この随神門は市指定文化財である。

随神門


 本殿の東側にそびえる「千本公孫樹(いちょう)」は天然記念物として国の指定を受け、また寛政5年(1793年)に発掘された元亨(げんこう)元年(1321年)在銘の梵鐘は県指定の文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。

千本公孫樹(いちょう)


  昭和54年3月

市川市教育委員会

 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は葛飾八幡宮のことを書いている。

八幡の里の八幡宮は、馬手(めで)の方の林中に在ておくまりたる宮居也。八幡宮は一宮・國分二寺・安國寺などやうにいづれの國にもありといへり。


 文政8年(1825年)6月29日、 渡辺崋山行徳 から葛飾八幡宮へ。

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