このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2005年
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子和清水
〜小林一茶の句碑〜
JR武蔵野線新八柱駅から新京成バス「牧の原団地行き」に乗り、牧の原団地で下車。
牧之原小学校の前を通って県道281号松戸鎌ヶ谷線に出ると、子和清水
(こわしみず)
がある。
養老伝説の地
子和清水
子和清水の像
子和清水の像の下に子和清水伝説が書いてあった。
子和清水
むかし、この近くに酒好きな老人が住んでいた。
貧しい暮しなのに、外から帰るときには、酒に酔っている。
息子がいぶかって父のあとをつけてみると、こんこんと湧き出る泉を手で掬って、さもうまそうに「ああ、うまい酒だ」といって飲んでいた。
父の去ったあと子が飲んでみると、ただの清水であった。
この話をきいた人々が「親はうま酒、子は清水」というようになった。
各地にある子和清水、古和清水などは、こうした伝説による泉です。
平成4年6月吉日
松戸東ライオンズクラブ
子和清水に小林一茶の句碑がある。
母馬が番して呑ます清水かな
清水は夏の季語。
夕陽を浴びて、赤く染まっている。
句碑の裏に由来が書いてあった。
由来
一茶は馬橋流山を第二の郷里とし、多くの遺作がある。
この句は文政2年、57歳の時詠まれたもので、その暖かい句心を偲び、これを後世に伝えんと地元同好者相集い、茲に記念の句碑を建立し、併せて小金牧と子和清水の地名を世に永く残さんとするものである。
昭和57年文化の日
松東俳壇一同 建之
『おらが春』には「小金原」と前書がある。文化14年(1817年)6月27日、一茶は江戸を発ち、7月4日に柏原に帰着。これを最後に一茶は江戸を訪れることはなかった。
寛政3年(1791年)3月26日江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。柏原に帰るのに先立ち、29日
馬橋
から布川に向かう途中で小金原を通りがかる。
廿九日、小金原にかゝる。此原は公の馬をやしなふ所にして、長さ四十里なるをもて、四十野といふ。草はあく迄青み、花も希々に咲て、乳を呑
(のむ)
駒有、水に望むあり、伏
(ふす)
有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ。
『寛政三年紀行』(3月)
小金牧は下総台地にあった幕府の御用牧場。
常盤平さくら通り
の八柱入口付近に「金ヶ作役所」(陣屋)あったので、辺りを「陣屋前
(じんやまえ)
」と呼んだそうだ。
子和清水の前の県道281号松戸鎌ヶ谷線は生
(なま)
街道(鮮魚
(なま)
街道)。
松戸市教育委員会の説明が書いてあった。
江戸時代、松戸は江戸川水運の重要な拠点でした。銚子にあがった魚は利根川をのぼり、
布佐
(我孫子)から舟で平塚(白井町)へ、その後陸路を金ヶ作〜日暮〜松戸新田〜陣ヶ前〜納屋川岸と運ばれました。この道筋を生街道といいます。
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